mixiユーザー(id:1762426)

日記一覧

私の奄美紀行ー16 戦時中に供出させられた教会、修道院の鐘は殆ど帰らなかった。それに比べ、大笠利の鐘は信者たちに救われ、守られてついに北大島の美しい海岸の故郷に帰り着くことが出来たのだった。アンジェラスの音の一つ一つに大笠利の古老たちはどん

続きを読む

私の奄美紀行ー15 一方、ピオ・ゲネット師と同じ頃来島し赤木名教会を担当したマキシモ・シレル師は昭和27年(1952)埼玉県浦和にいて、同市に聖堂を建てた。その教会のため宮崎から金を取り寄せたところ、大笠利教会の鐘であることが銘によって判明

続きを読む

私の奄美紀行ー14●数奇な運命の鐘 昭和5年(1930)頃から奄美の教会に弾圧の兆しが現われ、」同9年12月、ついに宣教師総引き揚げとなった。大笠利教会の放火全焼が12年。その頃にはこの鐘が大笠利から姿を消していた。「カトリック排撃」は宣教

続きを読む

私の奄美紀行ー13 瀧師の案内で教会堂に入った。入口の上方に司祭、修道女の写真がずらっと掲げてある。皆この教会の出身者とのこと。現沖縄区長、石神真郎司教をはじめ司祭七人、修道汝四十七人。実数はもっと多いであろう。これはキリスト教(奄美ではキ

続きを読む

私の奄美紀行ー12●司祭、修道女の故郷 奄美にローマは笠利とも大熊とも言われている。ここはそれほど教勢の盛んな地域だった。名瀬の大熊がパリー外国宣教会司祭による宣教の初期にカトリックを受け入れた。が、笠利は長崎出身の日本人司祭が先鞭をつけた

続きを読む

私の奄美紀行ー11 瀧師の運転するワゴン車の左右に砂糖キビ畑が点在している。二毛作の出来る気候条件を持ちながら水田が殆どない。一度キビ畑にしてしまうと土地が荒れ、水田は作りにくいそうだ。ここにも水田をキビ畑に強制切りかえさせた「大和世(やま

続きを読む

私の奄美紀行ー10●歴史を語るキビ畑 車は海岸沿いに北上した。沿道の畑地が草の生えるに委せてある、と思っていたところ、これが砂糖キビだった。四月に刈り取った後、親株から自然に生える芽出株を育て、翌年また収穫するそうだ。翌年また収穫するそうだ

続きを読む

★新型ウイルス関連の分析ーーーーーーーーーーーーーロシア政府が新型コロナウイルス(covid19)の感染拡大をおそれ、2月20日から、すべての中国人の入国を禁止し始めた。すべての中国人の入国を完全に禁止したのは世界で初めてだ。中国敵視のトランプの

続きを読む

私の奄美紀行ー9一月中に三十五日も雨が降るというから、まして今は梅雨期である。雨は覚悟の上だった。ところが快晴に近い晴天で、南島らしい暑さを感じた。幸いなことに私は九日間の滞在中に雨らしい雨にあわずに済んだ。これは島を取りまく美景を私の心に

続きを読む

私の奄美紀行ー8一、南島第一歩、笠利教会へ●旅人に親切な人たち 搭乗機は高度を下げはじめた。エメラルドグリーンの海に浮かぶ濃緑の島を白い波がフワフワとふちどっている。珊瑚礁に砕ける優しい波の線がぐっと目に近付いてきた。亜熱帯の島奄美、私は今

続きを読む

私の奄美紀行ー7奄美に再び司祭が常住するのは、戦後の昭和22年になってからである。昭和21年2月2日、いわゆる二・二宣言によって、北緯三十度以南の南西諸島(口之島以南)は米国の軍政下に置かれた。この米軍統治領で宣教を担当したのが、アメリカ系

続きを読む

私の奄美紀行ー6第三期はカナダ系フランシスコ会の時代である。大正10年(1921)、奄美地区を含む鹿児島県と沖縄の宣教はパリ外国宣教会からカナダ系フランシスコ会に移管された。大正10年と言えば、大島南端の瀬戸内町に陸軍要塞が着工された年であ

続きを読む

私の奄美紀行ー42 潮田氏はもう一つ興味深いことを指摘しておられる。カトリックはきわめつきの異文化であるが、これを受け入れた前記の地域に共通しているものとして、末子相続、不定相続の地帯ということ。不定相続とは長男であれ、次男、三男であれ都合

続きを読む

私の奄美紀行ー4 というわけで、明治24年名瀬に上陸したフェリエ師の前には福音の種を受け入れる新しい土壌が用意されていた。宣教の成果は宣教者自信さえも予期しないほどのものだった。島民にとって初めて接したキリストの教えである。精神の自由と救い

続きを読む

私の奄美紀行ー3 明治に入り、奄美の知識人たちの努力により、ようやく黒糖自由販売の「勝手世」を勝ち取るのである。 昨年訪れた長崎県・五島の信者たちは長崎キリシタンの血を引き、潜伏時代を生き抜いてきた人々たちだった。が、奄美はキリシタン時代を

続きを読む

私の奄美紀行ー2 奄美諸島は九州の南方海上、トカラ列島と沖縄諸島との間に、北東から南西に点在する島々である。奄美とはこの群島の地域名で、大島、通称奄美大島、はその主島である。長さ56キロ、巾30キロ。沖縄、佐渡に次ぐ面積をもつ。行政的には鹿

続きを読む

私の奄美紀行一1黒糖の島、福音の畑 フワッと離陸する衝撃を感じた。機はグングン高度を上げて旋回し、錦江湾に出た。桜島!と目を凝らすうちに、山容はあおり付ける噴煙の中に隠れてしまった。機は既に大隅海峡に出ていた。 この朝、6月1日羽田を九時四

続きを読む

「この次の機会には、ぜひシスターも」と、未参加者に誘い掛けの言葉となって、口をついて出る。 また、祈りの中に思い描くイエズスの姿が、いつの間にか、パレスチナから五島に場面転換している。大瀬崎の断崖にたたずんで、東シナ海の日没に祈るイエズス。

続きを読む

 白い水脈を残して海の彼方に遠ざかる島々に、私たちは名残りを惜しんで眺め入った。まさに巡礼の名にふさわしい五島の三日間であった。私たちの巡礼に同行して下さったM師は、五島灘渡航のフェリー船中で、次のメッセージを寄せられた。 「五島を訪れるの

続きを読む

●五島を後に(1988年8月31日) 有川の宿所を八時に出発。浦郷から青方へ出て、そこからは昨日午前中に通った若松瀬戸に沿って、逆に奈良尾港に向かった。感嘆の声を連発しながら眺めたあの美景を再び目にすることができて一同大喜びだった。親切な運

続きを読む

●有川の夜 有川の「ビーチホテル浦」に到着したのは四時五十分。今朝、福江から奈良尾に渡り、中通島を駆けめぐって、五教会の巡礼を果した。充実し同時に緊張した一日だった。 有川はかって捕鯨の基地として賑わった町である。鯨骨の鳥居があったり(海童

続きを読む

教会を出た一行は、海辺のキリシタン墓地へと道を下っていった。白砂のきれいな浜に波が静かに寄せていた。石垣に囲まれた墓地は、歳月に古びた墓石が十字架をいただいて、ひっそりと立ち並んでいる。迫害時代の傷あとを身にしるした人々も眠っている墓地。頭

続きを読む

 信徒が帰島し、島に生命が蘇ったのは明治6年(1873)、迫害終了後である。 明治憲法によって信仰の自由が保障されると、五島のあちこちに赤レンガ造りの堂々とした教会が建ち始めた。頭ヶ島では明治20年(1887)にまず木造の聖堂を造った。が、

続きを読む

 長崎・浦上のキリシタンがプチジャン師に自らの信仰を表明した頃、頭ヶ島でも活発な動きが始まった。まずドミンゴ松次郎が長崎へ渡り、神父と会い、カトリックに復帰した。帰島後、自宅を仮聖堂兼伝道士養成所として、クゼン師を長崎から迎えた。上五島各地

続きを読む