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日記一覧

トレンチタウンへの手紙ー1−1  あの頃は皆が輝いていた________________________________________原宿トレンチタウンがなくなってから九年の月日が流れた。トレンチがあった時代は時間の闇に消えようとしている。しかし、我が家の物置に眠っていた無数の

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2008年5月10日(土)ボブ・マーリイ・デイ資料[ボブ・マーリイ:キャッチ・ア・ファイア:ティモシー・ホワイト著:青木誠訳:音楽の友社:1992]1、 1975年9月30日、日曜日の夕刻、“ジャー・リブ”セッションの数日後だったが、ジャマイカ期

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 集まってきた子供たちも皆痩せているし、病気も多そうだ。眼に白い膜がかかっている子もいるし、手足にオデキのある子もいる。でも全員が明るくて陽気なので救われるが・・・・・。真っ白な「白子」の子供がいて、「イエローマン」と呼ばれていた。殆んどの

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 透き通ったカリブの青い空を見上げると、白く大きな雲が一つだけゆったりと流れていた。建物のすぐ近くの簡易ステージに腰掛ける。このステージは葬儀の時に使われたものだ。グラッドストンがやってきて、相変わらずガンジャを手にして隣に座った。 「I&I

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 陽射しが強く、空気は乾いていた。もうもうとした土埃(つちぼこり)の向こうからヘビーなベースの音が響いてくる。鬱蒼とした森の一角に小さなバーがあり、表の巨大スピーカーからレゲエが大音量で鳴っていた。僕には嬉しい光景だ。二十人ほどの人々が集ま

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 海岸沿いの道路から、セントアンで山道に入り、幾つかの小さな町を通り過ぎた。どこも人気がない。数軒の商店やバーと製材工場のある最後の町を過ぎると、森林と羊の放牧地が岩山の合間に見え隠れする荒涼とした景色となる。地元の二人を同乗させたタクシー

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 五年ほど前に、レゲエ・ショップ「トレンチタウン」を始めてから、二回ジャマイカに行きました。そして店を始めた大きなきっかけもボブ・マーリイの死(ラスタの人々にとっては、過去から未来に渡りジャー《神》と共に生きるとして、教条的には死は存在しな

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原宿の店で或る男が「犯罪者がうようよいるという点でジャマイカは秘境だよね」と言った。彼は仲良くなったジャマイカ人に「俺の職場を見せてやる」と連れていかれた所が、アメリカに密輸するマリファナを家具などに隠す工場だった。それでそんなことを言った

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90年代前半には日本人が怒涛のようにジャマイカを訪れた。多くの芸能人達もジャマイカ詣でをし、夏にはテレビも雑誌もこぞってジャマイカ特集を組んだ。これもバブルを象徴するような現象だったのかもしれないな。我が原宿トレンチタウンの常連さん達も、ご

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当時のタフ・ゴングは「ガンジャの砦」でもあった。まあ、あちこちで誰もがプカプカ吸っていた。ベースのファミリーマン・バレットはチャリスを片手にふらつきながら歩いていたし、僕がみんなが集まるベンチに腰掛けると途端にスプリッフ(ジョィント)が(や

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冬のニューヨークはとにかく寒かった。特に常夏の国、ジャマイカに行く途中のショート・ステイだから、防寒着はなにもなく、Tシャツを重ね着して薄い革ジャンとジーパンで冷気が建ち並ぶ高層ビルから降ってくるような極寒のマンハッタンを歩きまわった。その

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我が町と言うには少し抵抗あるけど、1983年と85年に二度滞在した、このレゲエ・フアンを惹きつけてやまない不思議な町、キングストンは僕の思い出の中で今でも息づいている。特に83年、真冬のニューヨークに一週間過ごした後、ジャマイカン・エアライ

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 目を閉じると、数十年前の深沢が蘇(よみがえ)る。新築の家は道路に面した大きな窓の斜めの白い格子がお洒落だった。家も道路に面した部分は歯科医院の待合室と診療室で、その隣にトイレと、義歯の加工の為の、技工室があった。技工室の前に小さな和室があ

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高校時代のバイク全盛時代には、警官は敵だった。知らない土地で一方通行を逆方向に迷い込んで迷い込んでパトカーに鉢合わせ。くるっとUターンして逃げ出したり、夜に酒飲んで運転中、後ろから近づくパトカーに気づき、「やばい」と、ナンバーを読まれないよ

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高校時代はバイクに凝っていた。悪友はライラック、僕は昌和クルーザー。どれももう存在しないメーカーの幻のバイク。そもそも最初に二人が乗り始めたのは本田が戦後初めて製作したごつい自転車にモーターがついてチェーンで後輪が回るというバイクの原型のよ

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昭和の時代の深沢は近くの駅といえば大井町線(今は田園都市線かな?)の等々力で、歩いて等々力に行くか、バスに乗って渋谷に行くか、という不便で辺鄙な町だった。だから畑が多いのも当然で、平成になって実家が売られ、後に寄ってみると小さなマンションに

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ここで僕は小学校4年生から二十代の終わり近くまで過ごした。大阪から引っ越してきた時には、家の周りは畑だらけだった。近所に園芸高校があり、そんなのどかな田園地帯だった。それから約35年、歯科医だった父親は引退して、千葉の妹一家の近くに住むため

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80,90年代に下北沢にあった、レゲエの飲み屋、不思議亭のママさんがアフリカに旅した話も印象的だった。当時店のバイトをしていたアフリカ人のラスタの紹介でガーナに行った時、或る村で大歓迎を受け、名誉村長の栄誉を与えられた。輿に乗って村を練り歩

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原宿トレンチタウンには旅人さんが沢山やってきた。最初の頃に現われ、話を聞いてびっくりした男がいた。がっちりした肉体の持ち主でとても野生的な雰囲気の人だった。彼の話によると、「世界中を密入国しながら旅してる!」らしい。彼の悪名高い北朝鮮にも密

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僕の知ってる原宿は表参道の交差点に、いわば原宿の象徴として、セントラル・アパートが最新のトレンドを発信していた頃。そこには第一線で活躍するデザイナー、カメラマン、スタイリスト等の事務所があり、一階の喫茶店「レオン」はそんな人々の群れる場だっ

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その時代のコアなレゲエ・フアンの意識としては、「ガンジャ(レゲエ=ガンジャ(大麻)」だった。さすがに店ではさせなかったが、ガンジャを受け入れる者だけが仲間意識を持つことができた。吉祥寺にあったコアなレゲエ・スナック「エア・エース」では「ジョ

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今思うと、あの頃のことはすべてが夢のように光り輝いている。原宿トレンチタウン(赤、黄、緑<ラスタ・カラー>のレゲエ・グッズを中心に雑誌、テープ、本を売っていた。レゲエ情報の発信もしていた)の誕生は1983年10月1日。その頃は原宿の最盛期だ

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当時家にはシロという犬がいた。僕が小学校から帰ると途中まで迎えにきてくれた。しかしいつの間にか、僕の思い出の中で、姿が消えていた。黒い猫も或る時期にはいた。近所にバラック(手作りのあばら家)に住むおじいさんがいた。恐らく戦災で家族を亡くして

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その頃を思い出すと、まるで夢のような不思議な出来事がぞろぞろ現われる。今となってみると、それが現実だったのか、夢の中の事柄なのか、はたまた子供時代の妄想なのか判別がつかない。しかし僕の記憶の糸を探ってみると色々の光景が浮かんでくるのだ。或る

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 大阪市西淀川区大和田町 この町で、僕は幼稚園時代から小学校4年生まで過ごした。この昭和20年代の大阪の下町で。近隣には復興した工場の群れが煙突から真っ黒な、あるいは灰色の煙をもくもくと吐き出し、それらの周囲には工場排水で真っ赤や真っ青な沼

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僕の母親の父(お祖父さん)は大酒飲みだったらしい。母(お婆さん)は地元喜多方(福島県)でも有名な美人だったが、病気で早死に。残された父は酒びたりになって、後を追うように死んだという。残された子供たち4人は、各々親類縁者に預けられ離れ離れで育

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この稲垣村は、父親が歯科医院を始め、母親の死を看取った所。この、僕にとって、お婆さんの死にも、或るほほえましいエピソードがある。戦後間もない頃だったし、貧しい村での出来事だったから、簡素な葬式(多分)を終えた後、村はずれの焼き場に遺体を大八

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知人に「よく生きていましたね」と言われた。そういえばそうだよな。亡くなった父親に僕が幼児の頃、家族で海岸にきた時、ふと気がつくと、離れた僕が海に落ちそうになっていて肝を冷やしたと聞いたのを手始めに、いろいろ危険な目に遭ってきた。特に、人生に

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いやいやもっと強烈な思い出も。いつ頃のことか忘れたが、高校の仲間達と自由が丘駅前の老舗のそば屋で昼飯を食べた。しかし、皆他人の金をあてにしてたので、全部の持ち金を集めても足りないことが判明。さて「どうしようか?」とひそひそ話し合いの結果、「

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