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ダライ・ラマ mixi日記

ダライ・ラマmixi日記
2007年11月03日03:33

ダライ・ラマほど苦悩に満ちた人生を送る人は、どんな時代を眺めてみても、稀だと思う。彼の存在を教えを心の支えにしているチベット民族の生存さえ危ぶまれる残酷な運命に対して、物理的には何もしてやれないから・・・。あくまでも「相互理解と和解」を説くダライ・ラマ。僕には、変な言い方だけど、ちょっと人間離れしている姿勢にも感じる。「やられたらやりかえす」のが基本姿勢の僕(困ったもんだね)には「シンジラレナーイ」ほどの寛容さだし、或る意味、「民族の苦境をどう思ってるんだい?」とも感じる。そんなダライ・ラマの誕生秘話が、映画になった「セブン・イヤーズ・イン・チベット」の原作に詳しく紹介されている。これがまたすごいんだよね。今生きている人の話とは思えないほど神秘的です。彼の信者でない僕には、彼を神様と信じる気持ちにはならないけど、「この世でもっとも神様に近い人」と感じてしまいます。それほどすごい!

チェンンレシの十四代目の生れ代り

 クンデューン(身近な人はダライラマをこう呼ぶ。意味は「現在(当代様?)」)と私の間がすでに非常に打ちとけたものとなった頃、私はあるとき、仏の生れ代りとして見つけ出されたときのことを話してくれないかと訊ねた。彼が1935年7月6日に大きい湖クク・ノールの近くで生まれたことは、すでに知っていた。しかし私が彼の誕生日のお祝いを言ったとき、そんなことをしたのは私ひとりであった。個人の誕生日などにはチベット人は無関心で、その日をよく知りもしないし、祝いもしない。自分たちの国王がいつ生れたかということは、国民にとってはどうでもいいことであった。国王はチェンリシの再来を意味しているにすぎない。
 
 チェンリシは慈悲の神であり、衆生を済度するために涅槃を断念した千人以上の生き仏のうちの一人である。チェンリシはチベットの守護神となり、その再来が代々ベーの王となった(土着の人間はこの国のことを《ベー》と呼ぶ)。仏教徒に改宗した蒙古の王アルタル・カンが、チェンレシの生れ代りにダライ・ラマという称号を与えたのであり、その呼び名が西欧世界全体で今日まで使われている。現在のダライ・ラマは第十四代目の生れ代りである。国民は彼を国王というよりは、むしろ生き仏と見ており、祈祷も、支配者ではなく、守護神に対して行っているのである。人が自分に寄せる要求を満たすことは、若い国王にとっては容易なことではなかった。人々が自分に神の判断を求めており、自分の指示や行為がすべて間違いようのない確かなことと受け取られて、この国の歴史のなかに組み込まれて行くことを、彼はよく心得ていた。すでに今から、数週間に及ぶ瞑想や、宗教の勉強を深めることによって、重い職務の準備をしようとつとめている。彼は、第十三代ダライ・ラマほどの自信は、まだなかなか得られなかった。ツァロンが、亡くなった支配者の優れていたことを示す典型的な例として、私に語ってくれた話がある。

 彼は新しい法律を作ろうとして、保守的な側近たちのはげしい抵抗に出会ったことがある。人々は、同じ問題に対する第五代ダライ・ラマの言葉を引き合いに出した。それに対して第十三代ダライ・ラマは、「ところで第五代様というのは誰のことなのだ?」と答えた。この言葉に僧侶たちは彼の前にひれ伏した。この返答には側近たちも一言もなかった。彼は生れ代りである以上、たんに第十三代にとどまらず、同時に第五代でもあり、さらに他のすべてのダライ・ラマであるというわけである。

この話を聞いて、この国の支配者のなかにひとりとして暴君ネロやイワン雷帝のような性格の人がいなかったとは、チベットにとって何たる幸せか、という思いがおのずと浮んできた。もちろんチベット人にはこんな考え方が理解できるはずがないー慈悲の神の化身が悪かろうはずがない、というわけである。

 ダライ・ラマは自分が発見されたときの事情を訊ねられても、満足のゆく返答をすることができなかった。彼自身はまだ小さな子供だったので、詳しいことはほんのかすかに覚えているだけであった。私がそのことに大いに関心を抱いているのを知ると、自分が発見されたときに居合わせた貴族たちの一人に聞けばいいと、助言してくれた。

 まだ生きている数少ない目撃者の一人とは、現在チベット軍司令官をつとめているザサ・キュンサンツェであった。彼は進んである晩私に、このまことに不思議きわまる出来事の顛末を語ってくれた。

 第十三代ダライ・ラマは、1933年に亡くなる少し前に、すでに自分の再生の仕方についてなにがしの暗示を与えていた。死後彼は、伝統的な仏陀の姿勢で南を向いて、ポタラのなかに安置された。ところがその後、ある朝彼の顔が東に向いているのが発見された。ただちに国のお抱えの占い師に伺いを立てると、その僧侶もまた陶酔に陥って、白いヴェールを日の昇る方向に投げた。しかし二年間はそれ以上の手がかりは見つからなかった。そこで摂政は手がかりを求めて、有名なチェ・コール・ギュエ湖に巡礼に出かけた。この湖については、湖面を覗きこんだ者は誰でも未来の一部を予見できるということで知られている。この湖はラサから八日間の旅程のところにあるので、私にはどうしてもそれだけの時間が取れなかった。もし事情さえ許せば、そこまで旅をして、この奇蹟の湖の写真を二、三枚撮りーいや、実を言うと自分でも覗きこんで見るつもりであった。

 摂政が祈祷を重ねながらこの湖まで行ってほとりに立ち、覗きこんでみると、黄金の屋根を持った三階建ての僧院の姿があらわれ、僧院のそばには、美しい彫刻を施した破風を持った中国風の百姓家が一軒建っていた。神の指示に感謝しながら再びラサに帰ってくると、次は探索の準備が始まった。全国民がそれに深い関心を寄せていた。国民は生ける守護神を失って、すでに非常に心細い思いをしていたのである。この点ヨーロッパでは、再生はすべて死と同時に行われるはずだと、過(あやま)って考えている場合が多い。だが仏教の教義によると、そうではなく、神が再び天上の世界から帰ってきて人間の姿を取るには、何年もかかる場合がある。こうして1937年になってはじめて、各種の探索隊が出発し、神の前兆に応じて、指示された方向に聖なる御子(みこ)を探しはじめた。派遣されたのは僧侶たちであったが、各グループには必ず世俗の役人も一人つけた。一行は必ず第十三代ダライ・ラマが日常自分で使っていた物を携行した。しかも、これらときには使い古した質素な遺品のほかに、同じ目的に使うために、豪奢で輝くばかりに新しい品物も持って行った。

 私の証言者の加わっていたグループは、キュエツァン・リムポチェに率いられて、中国青海省のアムド地区までやってきた。この一帯にはたくさんの僧院がある。ラマ教の改革者であるツォン・カバの生地だからである。住民の一部はチベット人で、回教徒に混じって穏やかに暮らしていた。探索隊は何人かの少年を見つけたが、いずれも条件には合わなかった。一行はすでに自分たちの使命の成功を疑っていた。長い放浪の後に、ついに黄金の屋根を持った三階建ての僧院に行き当った。

 その瞬間、摂政の見た幻影が閃(ひらめ)くように眼前に浮び上がってきたーと同時に、すでに一行の目にも、すばらしい彫刻を施した破風(はふ)を持った一軒の百姓屋が映った。興奮に胸を躍らせながら、彼らは大急ぎで召使いたちと衣服を取り替えた。これは探索の場合いつも行われることで、この変装には賢明な意図が隠されている。ベンボ(高位の役人)として顔を出すよりも、むしろいたずらに人目を惹くのを避けて、人々とじかに接触するためである。主人の衣装をまとった召使いたちは上等の間へ通される。召使いに変装した貴族は、家の子供が遊んでいる台所で坐る場所を探す。

 一行がその家に入ったときすでに、ここで本当の御子(みこ)が見つかるという確信を抱いた。そして、次にやってくるに相違ないことを、緊張して待った。事実、二歳になるやならずやの童子が勢いよく彼らのところへ駆け寄って、首に第十三代ダライ・ラマの数珠をかけていた僧侶の衣をつかんだ。いささかも物怖じすることなく童子は「セラ・ラマ、セラ・ラマ!」と叫んだ。この童子が召使いをラマ僧と見抜き、しかもすぐにその僧侶がセラ僧院の出身だと言ったことが、すでに驚嘆すべきことである。これは日頃神秘的な出来事に慣れている僧侶たちにとってすら、呆れるばかりのことであった。次にその子は例の数珠をつかみ、それを引っ張ってラマ僧の首からはずし、自分の首にかけた。

 貴族たちは、ただちに童子の前の地面にひれ伏したい思いを、やっとのことで抑えた。もはや何の疑点もなかったからである。一行は仏の生れ代りを発見したのである。しかし、ひとまず別れを告げ、数日後また、今度は変装しないでやってきた。一行は、すでに一人の息子を生れ代りとして寺院に捧げていた両親と話し合いをした。それから四人のベンボは、この利発な子供を連れて、仏壇のある部屋に引っこんだ。扉を閉めて、そこで子供に対して定められた試験をした。まずいろいろな数珠を四つ子供に見せたが、死んだダライ・ラマの遺品はなかでも一番質素なものであった。ごく自然で、少しも物怖じした様子のないその子は、ためらうことなく正しい数珠を選び、それを手にして嬉しさのあまり部屋の中を跳びまわった。死んだダライ・ラマが召使いを呼ぶときに使っていた太鼓も、いくつかの太鼓のなかからすぐに選び出し、また王の使い古しの散歩用ステッキも、象牙や銀の握りのついた新しいステッキにも一顧だにくれずに、つかみ取った。その子の身体を調べてみると、チェンレシの生れ代りが持っているはずの印(しるし)は、すべて持っていた。いくぶん横につきでた大きい耳、四本の腕を持っていた神の、下の二本の腕の痕跡を表わすとされている、上体のほくろ。それらがすべてそろっていた。

 今や探索の一行にももはや疑いようはなかった。発見の報告の暗号電報を、中国及びインド経由で、ラサへ打った。いかなる陰謀にもこの大計画を邪魔されないように、絶対に秘密を厳守せよ、という指示がただちに返ってきた。四人の使者は、携行していたチェンレシの画像の前で秘密厳守の誓いを立て、カムフラージュにもう二、三人子供を試験するために、さらに旅を続けた。探索行為はすべて中国領土内で行われているので、慎重にも慎重を重ねて事を運ばねばならなかったのである。本物のダライ・ラマを発見したということは、是が非でも漏らしてはならなかった。さもないと、中国は護衛と称して軍隊をラサへ派遣することを主張する可能性があった。そこで州知事のマ・プファンに、数人の候補者のなかからダライ・ラマを決定するために、この少年をラサに連れて帰ってもいいかと、伺いを立てた。マ・プファンは少年を引き渡す代償として、十万中国ドルを要求した。言われた金額をすぐに払った。しかしそれは誤りだった。チベット人がこの少年をいかに重視しているかということを、相手に覚られてしまったのである。彼らはさらに三十万ドルを要求した。自分たちの失敗に気づいた代表団は、今度は金額の一部だけを、回教徒の商人たちから借りて払い、残額は、一行のキャラバンに同行することになった例の商人たちに、ラサに着いてから清算することにした。知事もそれに同意した。

 1939年の夏の終りに、四人の貴族の一行は、召使い、例の商人たち、当の子供及びその家族をひき連れて、やっとラサに向かって出発した。数ヶ月の旅ののち、チベット国境に到着した。そこにはすでに大臣たちが従者をしたがえて待っていた。正式にこの選択を裁可した摂政の文書を少年に手渡した。ここではじめてこの少年に対してダライ・ラマに対する礼が取られた。自分の息子があまり鄭重(ていちょう)に扱われるので、かなり高位の生れ代りに相違ないと、薄々は感づいていた両親も、ここではじめて、息子がほかならぬチベットの未来の支配者だと聞かされた。これによって、一家の生活も一変することとなった。

 この日から小さいダライ・ラマは、さも以前からやり慣れた当然のことのように、祝福を与えた。彼自身、今もはっきり、黄金の輿(こし)にかつがれてラサに入ったときのことを覚えていた。これほどたくさんの人間を見るのは生れて初めてであった。何年間も心細い思いをさせられたあげく、やっとポタラに入城するチェンレシの新しい化身を拝もうとして、ラサじゅうの人間が出かけていたのである。《御先代様》の遷化(せんげ=死)以来すでに六年が経っていた。つまり、その六年のうち二年近くが、神が人間の形を取るために要した時間ということになる。

 1940年2月には、新しいダライ・ラマの御戴冠の祝いが、新年大祈祷祭の期間中に催された。同時に彼は、さまざまの新しい称号を得たー「聖なる人」「慈悲深い栄光の人」「力強い言葉を語る人」「卓越した理性」「絶対の知恵」「教理の守護者」「大洋」。

 少年の身に備わっている、その年齢では考えられない威厳や、何時間もの儀式を運ぶ態度の真摯(しんし)さには、誰もが驚いた。身のまわりの世話を受けることになった御先代の召使いに対しても、まるで昔からの顔見知りであるかのように、やさしく打ちとけた態度を示した。

 私はこの話を、いわば目撃者から直接に聞けたことが嬉しかった。時の経つうちに、この驚異の事件について多くの伝説が作り出され、それについては多種多様の異説を耳にしていたからである。(P354−359)


4月4日(火) 3:30pm 曇り。寒い・・・

 やっと「チベットの七年」から解放された。あまりに面白く、貴重で、或る意味未来をも示唆する、これらの文章を一人でも多くの人に読んでほしくて頑張った。若い人から見れば、遥か過去の昔話と感じるかもしれないけど、これは僕たちの時代の物語でもあるのです。この神秘の世界からやってきた第十四代ダライ・ラマはインドのダラムサラで巨大なチベット難民キャンプの主として、チベット本国で破壊されつつある伝統文化や宗教の保護と、チベットの解放を求める戦いを半世紀近くも続けている・・・。この平和な民が自由な母国に戻れることを切に願っている・・・。


この文章は、もう廃棄した、ホームページの「札幌日記」に掲載された。他にも感動的エピソードがあるので、後ほど紹介しましょう。

札幌もぐんと寒くなりました。函館から札幌への通り道、中山峠は雪で白くなりました。札幌も、まだ煙のような雪ですが、初雪が宣言されました。いよいよ冬ですね。この緊張感も北国ならではだなあ・・・。

熊チャリ2007年11月03日 08:22
人に向ける牙が 強さと言われる時代
自分に向ける牙こそ 強さと教えてくれた

人生そのままチヤランケの生き方 凄い 人  です
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