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2021年02月14日09:06

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キリシタン紀行 森本季子ー350 聖母の騎士社刊

紀州の秘境 龍神と教会ー63

●那智の海
 帰路はバスでJR紀勢線、那智駅に出た。列車到着までの一時間を、駅裏の海岸に行ってみた。ここもまた歴史と伝説の浜である。
 熊野街道の一つ、大辺路(おおへじ:田辺から新宮まで海岸線に沿った古道)の一部をなしている。渺茫(びょうぼう)として霞む熊野灘の彼方に補陀落浄土(観音の浄土)がある。と信じられていた時代があった。那智駅からも近い補陀落山寺の歴代住職が、かって、死期を感じるとこの浜から死出の旅へと漕ぎ出した場所である。那智山宮曼荼羅にも描かれていた補陀落信仰の補陀落渡海である。
 平維盛に関する伝説の一つもこの浜辺である。龍神村の口碑とは別に、「維盛、那智の海入水」の伝えに従って「維盛の墓」と称するものも近くにある。
 暮れなずむ空の下に、銀色を帯びて柔らかにうねる海面を見つめていると、今、維盛の姿が波間に消えたばかりのような錯覚に襲われる。また、彼方、水平線のあたりには、没しようとする補陀落への渡海舟が想像の目に映じてくる。
 平家の滅亡でさえ、フランシスコ・ザビエル渡来(一五四九)の三百六十年以上も前である。仏教の伝来は六世紀半ばで、それらも千余年前。更にさかのぼって原始宗教の古代が存在する。人間の長い歴史の中で、人は信仰の対象を求め、救いの道をたずね続けていたのである。
 波打ちぎわに様ざまな海藻が打ち上げられていた。その中から、白いてんぐさの乾いたものを拾いあげてノートにはさんだー那智の海の記念に。
 新宮教会に帰着したのは日没の直後。聖堂正面が残照に明るく輝き、尖塔の十字架が紺青の空にくっきりと形を刻んでいる。前庭の栴檀(せんだん)の木は枝いっぱいに薄紫の雲のような小花をつけ、かぐわしい香りをあたり一面に振り撒いている。おうちとも言い、暖地の海辺に自生する木だが花を見るのは初めてのこと。
 「栴檀は双葉より芳し」の栴檀は白檀を指すというから、白檀の異称でもあるらしい。
 夕べの空に送る無言の賛歌のようなこの花の芳香を、胸一杯に吸って私は聖堂に向かった。
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