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2020年12月29日09:05

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キリシタン紀行 森本季子ー316 聖母の騎士社刊

紀州の秘境 龍神と教会ー29

●源氏の落人と大塔宮 
 時は少しく前後するが、世はまだ平家の時代であった。
 源頼朝の蜂起に先だって、源三位頼政が以仁(もちひと)親王(後白河天皇の第二皇子)の令旨を奉じて、平氏討伐ののろしをあげたのが治承四年(一一八〇)。討手の大将は平維盛。頼政は宇治に敗死した。この時彼の五男頼氏が逃れて奥龍神・戸野野(現在の殿垣内〈とのがきない〉)に潜入した。頼氏はここに住み付き、次第に支配的地位を築いていった。
 頼政の死後わずか四年、歴史の舞台は大きく回転していた。討つ者は源氏、追われる者は平家となった。宇治に一族郎党を失った頼氏がようやく戸野野に安住の地を得た頃、皮肉にも、同じ龍神系のひだの一つ、小森谷に落人となってたどりついたのが維盛ということになる。
 龍神の維盛については口碑あるのみだが、頼政の子、頼氏に関しては資料が存在し、彼の子孫は現在に至っている。頼氏は源性を棄て、在所の名・戸野野を名乗った。後に彼の子孫が龍神を姓とした。現在龍神温泉の旅館・上御殿が龍神姓であり、頼政までたどる系図を所持しているそうだ。

 時代は下って「太平記」の世界にも龍神地域が登場する。
 後醍醐天皇が北条幕府によって隠岐に配流となったのは元治二年(一三三二)三月。天皇の皇子・尊雲法親王(天台座主)が還俗し、大塔宮護良親王と改めた。宮が吉野に挙兵し、楠正成が千早城に拠ったのは同年十一月。北条の大軍に吉野の城が陥落したのは翌年二月。護良親王一行は熊野路から紀州路へと落ちて行った。
 長汀曲浦の旅の路。心を砕く習なるに、雨を含める孤村の樹、夕を送る遠寺の鐘、哀れを催す時しもあれ、切目の王子に着き給う(「太平記」)
 切目はJR紀勢本線、御坊と伊田辺の中間にある。切目王子は、熊野権現の分霊を祀った熊野古道九十九王子社の一つ。
 親王はこの社に参篭の後、切目川を遡り、三里峰を越えて山地郷(龍神地方)に潜行したと見られる。(「日高郡誌」)。一行は三里峰から下柳瀬の太子堂に下り、上柳瀬を経て奥龍神に向かう道をたどった。
 その途次、宮代の豪氏栗林家に立ち寄り、正月餅を所望したところ、拒絶された。栗林は後に大塔宮と知り、悔悟した。以来、栗林家では正月餅をつかなかったという。これは現在の戸主、古久保氏の代にも守られているとのこと。
 「同家では正月餅をつくと紅くなる」という言い伝えがある。宮への申し訳のため、正月餅をつくな、といういましめであろう。このような口碑とならわしは、親王の龍神入りを証している。
 親王を迎え入れたのは源頼政の子孫、戸野野頼勝で、一行はここに暫時逗留した。その後、宮は十津川に潜行したと伝えられる。
 山伏姿となって、雪中の下柳瀬(現カトリック教会近く)を踏み分け、また、小又川すじから果無(はてなし)山脈の難路を十津川に向かって姿を没してゆく大塔宮と従者たち。その途の果てに鎌倉の土牢が待っていた。
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