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2020年07月30日07:50

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キリシタン紀行 森本季子ー194 聖母の騎士社刊

天草・歴史の幻影ー52

一、志岐とキリシタン
●天草のキリシタン開教
 「富岡へ行く前に、志岐と富岡の地形を目に入れていただく方が便利です。それには志岐山がいいでしょう」
 私たちの案内者・苓北町役場の北武敏氏が、坂瀬川の「四郎乗船之地」から車を志岐に返して、南東の志岐山を目ざした。山と言っても二七〇メートル。志岐と本渡の間をつづる丘陵地帯の一角で、北部地域広域農道が通っている。本渡への近道でもある。
 志岐の町並を出はずれると、樹木に覆われた低い丘が右手に見えた。かってこの地方の支配者、天草五人衆の一人・志岐氏の居城跡である。天草キリシタンの黎明は志岐に始まるのだが、それに言及する前に、当時の状況を一瞥すれば・・・
 ポルトガル船の種子島漂着によって鉄砲が伝えられ、南蛮貿易の道が開かれることになったのが天文十二年(一五四三)。フランシスコ・ザビエル一行の日本渡来がその六年後(一五四九)である。時は戦国末期。九州諸大名の間に南蛮船への関心が異常に高まった。領主たちは宣教師を仲介として、南蛮船を自領の港へ誘致しようと努力した。目的は南蛮貿易の利と鉄砲入手である。鉄砲は戦国大名の垂涎の武器だった。
 それにはまず宣教師たちにキリスト教への関心を示し、布教の自由と保護を与えねばならない。こうして、最初のキリシタン大名、大村純忠は領内の横瀬浦へ永禄五年(一五六二)既にポルトガル船の入港を見ている。志岐麟泉の親せきでもある有馬氏が、同様に口ノ津港へのポルトガル船誘致を交渉している。

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