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2020年07月29日07:24

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キリシタン紀行 森本季子ー193 聖母の騎士社刊

天草・歴史の幻影ー51

妙見浦は遠望の方が美しい。石ころだらけの海岸に岩が突き出し海水を囲っている。泳ぐ場所ではないが、家族づれが水の中で遊んでいた。私が岩場で小魚の群をのぞいている間に、実際家のシスター松下は打ち寄せられたてんぐさをせっせと拾い集めていた。自家製寒天を作るのだという。
 さざ波が岩の周りにたわむれ、優しくささやき交わしている。が、一旦嵐ともなれば、外界に面した荒磯は、形相一変、さぞすさまじいことだろう。

●四郎船出の地
 志岐、富岡周辺のキリシタン遺跡は、大体見当はついているものの、正確な場所や道順が分からない。苓北町入って交番で尋ねると、役場の観光課で聞く方がいい、と教えられた。
 苓北町は志岐、坂瀬川二村と富岡町が昭和五十六年(一九八一)合併した新町名で、後に都呂々村を編入している。この町の企画課で北武敏氏に面会した。苓北町のキリシタン関係遺跡の見学希望を述べると、早速、苓北町史から関係箇所をコピーし、パンフレット類と共に渡して下さった。そればかりか、
 「私が車で案内しましょう」
 北氏はさっさと駐車場に向かう。
 「さあ、どうぞ」
 氏の車である。シスター松下のバンはそこに置いて出発した。私たちにも羽のない守護天使の案内がつくこととなった。
 「まず坂瀬川海岸の『四郎乗船地』に行きましょう」
 車は志岐の町並を出はずれ、富岡湾沿いに北上してゆく。停車したところが『天草四郎乗船之碑』の前。坂瀬川漁港に面した道ばたである。
 碑のある一部は十分の広さを取って、一段高く石で囲まれている。この記念碑は、高い台座と船型の石、その上に押し立てられた大型十字架の三層から成っている。船型石には横書きに『天草四郎乗船之地』と刻まれている。
 濃緑の海中には通詞島が細長く横たわり、その背後に、島原半島の先端が雲をまとってかすかに延びている。
 天草上島の島子における前哨戦、つづいて下島の本戸戦に破れた唐津軍は、本拠の富岡へ敗退し、城にこもった。追撃して来た天草勢が富岡城攻撃に当たって本陣を置いたのは通詞島対岸の仁江(現五和町)であった、と言われている。「四郎陣中旗」もまた下島北岸にひるがえったのである。
 富岡城の攻防では一揆勢が痛手を受けて後退した。肥後藩の兵が天草に来襲するとの風聞が伝わってきた。四郎は自軍を撤収して、島原の一揆勢と合流することにした。
 天草四郎が島原に向かって乗船したのは坂瀬川近くのこのあたりであったのだろう。大矢野島、上島周辺のキリシタン農民はことごとく島原へ渡った。彼らを乗せた漁船の群が早崎瀬戸を乗り切って、島原湾へと消えてゆく・・・。その人々は再び帰ってくることはなかった。彼らの故郷は、住む人もなく亡所と化した。
 原城に立てこもったキリシタン三万七千のうち天草人が一万四千と伝えられている。幕府の攻城軍は十二万。
 天草が四郎時貞とその陣中旗を最後に見たのがこの下島海岸である。天草の少年英雄、この地から故郷を去る、という天草人の思いが、観光と結びついて、この巨大で朴訥な碑になったように思える。
 島原の原城で滅んだ一揆の者も、それを攻め滅ぼした人々も、時の流れの彼方に去った。
 後には「天草四郎陣中旗」だけが残って激戦の様をその血痕、弾痕に伝え、四朗軍の戦い振りを彷彿させる。(写真は天草四郎の陣中旗)

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