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2020年07月03日08:39

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キリシタン紀行 森本季子ー170 聖母の騎士社刊

天草・歴史の幻影ー28
この事件の後、施政者は棄教証明の「踏絵」を二度踏みさせ、監視は更に厳重なものとなった。しかし民衆の心は草の根の如くしたたかである。まして、ことは信仰に関する。異仏提出命令にも、全部を出したのではない。秘匿されたものは明治以後、信教の自由を得て、ようやく明るみに出るのである。
 また彼らは踏絵にもたじろがなかった。これはあくまで見せかけ、心は別、と割り切っていた。というよりは、これもまた別途に利用したのである。
 大江の山下大恵氏(隠れキリシタンの子孫)が古老に聞いた話として語るところによれば、
 「大庄屋の庭で毎年行われる踏絵の日には新しいワラジを皆はいて行き、役人の前でしっかりと、むしろ勇ましく絵踏をしたそうです。家に帰ると早速そのワラジを釜で煮立て、その湯を信心をもって飲んだと言います。健康にもいいと思っていたようです」

●大江村・明治の改宗
 日本のキリスト教復活は、慶応元年(一八六五)、長崎から始める。大浦に天主堂が建ち、パリー外国宣教会の司祭が常駐した。長崎近辺の隠れキリシタンが、プチジャン神父(後に司教)に信仰告白をしてカトリックに復帰したことは有名である。


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