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2020年07月02日08:22

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キリシタン紀行 森本季子ー169 聖母の騎士社刊

天草・歴史の幻影ー27

●「心得違いのもの」
 潜伏時代の天草キリシタン史の中で「天草くずれ」と言われる特異な事件が、文化元年(一八〇四)に起こっている。天草・島原の乱後百六十八年を経て、天草には表向き、一人のキリシタン宗徒もいないことになっていた。住民のすべては仏寺の檀徒に登録され、踏絵も年毎に実行されてきた。
 ところが、文化元年の正月、旧今富村でキリシタンのものと見える異像が発見された。更に同村で、牛を殺して仏前に供え、これを食したことが発覚した。牛馬の屠殺、食用は禁じられていたのである。これがきっかけで探索が行われ、キリシタンが潜伏しているらしいことが分かった。なお探ってゆくと、今富ばかりでなく、大江、崎津、そして高浜の各村にも大勢のキリシタンが発見された。五千二百以上という、当四ヵ村の半分以上ということになる。
 当時、天草は島原藩主・松平主計頭忠篤(ただあつ)の預り領となっていた。報告を受けた松平藩は驚愕した。が、この事件は賢明に処置された。
 天草下島のうちでもこの南部地方は天草の乱にも参加していなかった。宣教師を失った後百六十余年もの間、キリシタンの子孫は人目を忍び、仏徒をよそおって生きていた。その間に信仰形態は変形を重ねて土俗化していた。またこの時期に至っては、キリシタンが発覚しても、一揆を起こす心配は最早無いものと見られ、かえって下手に刺激して問題を起こすことを恐れた。島原藩では慎重に扱い刑罰を加えず説得することとした。信徒の告白によれば、信仰の中心は「天地のデイウス様」であった。強要されて提出した「隠し仏」の中には大黒、弁天、弘法や西行の土偶、一門銭、鏡などがあった。これらは「マルヤ様」として隠れ信心の対象になっていたのである。外教者が見れば、何ということもない品々である。藩では彼らを「心得違いのもの」、つまり、無知な住民が心得違いにより、異仏や雑多なものを信仰していたもの、と裁定した。その異仏を差し出し、信仰を棄てた故「おとがめなし」ということにした。幕府はこの島原藩の扱いをそのままに裁許した。キリシタン事件としては異例の寛大さと言っていい。

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