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2020年05月12日08:36

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キリシタン紀行 森本季子ー117 聖母の騎士社刊

私の奄美紀行ー81

ルーシン・ヤング師はコンベンツアル聖フランシスコ会・日本管区奄美地区区長、と肩書が長い。この日の本部は全島から司祭たちが集まり、主人役のルーシン師は忙しい。それにもかかわらず時間を都合して、九時半から十一時まで会っていただけることになった。
 師は昭和33年(1958)の来島で、既に三十年の奄美生活である。師から戦後の宣教苦心談を聞くことが出来た。 
 「私の来た頃北大島に現在ある教会は、戦後早くに来島したカプチン会の神父たちによって全部復活していた。南部はその後で始まった」
 コンベンツアル会の新開拓地は名瀬より南の大島である。来日早々、師は東京・六本木の日本語学校で二年間を日本語習得に過ごした。昭和35年(1960)帰島してみると、
 「司祭は少数だったので、島の方々から要望された。島の人たちはキリスト教を知りたがっていた」
 師は南西岸の大棚に行くことになった。奄美特有の茅ぶき民家を借りて仮聖堂と司祭室にした。四畳半二間である。
 「毎日二十人ぐらいの未信者がミサに来た。病人の治療もした。子供の皮フ病が多かったよ。私はアメリカから薬を沢山寄付してもらい、医学書を読んで治療した。高熱を出した子供に薬を飲ませたら、二時間後には遊んでいたよ」
 集落の殆どが無医村だったのである。」
 「蠅がすごく多くて、まっ黒になって病人や食べ物にたかった。そのうちに受洗者も出てきた。

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