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2020年04月08日09:07

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キリシタン紀行 森本季子ー88 聖母の騎士社刊

私の奄美紀行ー52

 大島高等女学校の開校は大正13年(1924)4月。これが大島最初の女子高等普通教育機関だった。その創設は名瀬の識者が宣教師団に対して懇請したことによる。奄美は大正10年(1921)よりパリー外国宣教会に代わってカナダ・フランシスコ会が司牧していた。同会代表者モリス・ベルタン師と麓甚悦名瀬町長との間に折衝協議の結果、敷地地上権の無償提供を受け、開校の運びとなった。校長は帰化カナダ人米川基師。教師にはカナダの無原罪聖母会シスターズが招かれた。将来を嘱望されたスタートだった。
 大島の南端古仁屋に陸軍要塞とその六基の砲台工事の着工はカナダ・フランシスコ会来島と時を同じくした。嵐の芽はここに育(はぐく)まれていった。やがて外国人排斥が起こった。大島高女には昭和8年(1933)イエズス・マリアの聖名の会のシスターズが援助に来ていたが、ここも弾圧をまぬがれなかった。
 昭和8年と言えば、前年1月に第一次上海事件、3月に満州国建国宣言、日本は国際連盟を脱退している。押し寄せる戦争の怒涛が遠雷のように不気味に響いている時代である。要塞地帯では軍人の神経がとがっていた。大島高女の教育勅語保管場所をめぐって事実が歪(わい)曲捏(ねつ)造され、地方新聞が排斥の世論をあおった。文園章光の手記「奄美大島の『カトリック迫害』の導火線となった大島高女問題の発端」を読むと、無理無体に廃校へ追い込まれた、という感を深くする。昭和9年(1934)3月大島高女廃校、同年宣教師総引き揚げとなった。

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