mixiユーザー(id:1762426)

2020年04月01日08:14

88 view

キリシタン紀行 森本季子ー82 聖母の騎士社刊

私の奄美紀行ー46

 今では共通語が日本のどこに行っても通じる。私のまわりでも、奄美の人たちが島口で話し合っていたと思うと、私に向かってはたちまち立派な共通語で話す。その使い分けが実に見事である。まるで二か国語を採用している国に来たような気分になったものである。
 前述の如く、宣教師を大島に招聘したのは島民側で、教勢の発展は速やかだった。が、この外来の宗教が何の抵抗もなく定着したわけではない。奄美には「那覇世(ナハンユ)」つまり琉球服属時代(1266〜1609)から伝わるノロの祭祀やユタの原始的シャーマニズム(迷信的な占い、呪術)が残っている。薩摩藩直轄時代(1609〜1871)に弾圧を受けながらも存続した。大熊でもノロの宗教行事に集落の人々は参加していた。宣教師はカトリックの入信者に当然これを禁じた。
 ほかにも司祭が禁じたものに「八月踊り」がある。
 奄美諸島に広く分布する民族舞踏で、豊年感謝をこめて、各村落共同体を単位として踊られる集団象徴舞踏である。(中略)これは「み八月」といって一年の重要な折目行事で、先祖の霊をまつり、豊年感謝と祈願を行い「八月踊り」を踊るのである(「奄美・自然・文化・社会」九学会連合奄美調査委員会刊)
 この起源は歌垣的な性格をもつものであったらしい。これについて小坂井澄氏は「悲しみのマリアの島」の中で
 八月踊りは、その起こりに、サトウキビ畑で働くヤンチュ(農奴)たちの年に一度の性的解放性的解放という面を持っていたので、歌われる島歌にも卑猥な歌詞のものが多かったし、おどりの興奮は奔放な性行為に発展しがちであった。そういう点で宣教師たちが警戒したのはもっともであったかもしれない。
 と述べておられる。当時の信者を両親に持つ明八重子さんなども、八月踊りの当日は外出もできなかったという。

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する