私の奄美紀行ー42
ゼロム師は名瀬市の南方、西仲勝に土地を購入し施設を造った。昭和30年(1955)来島した幼きイエズスのシスターズは社会福祉施設乳児院「天使園」を開いて、和光園の嬰児を引き取った。こうして闇に消えるはずであった五十名近い生命が誕生し、無事に成長することが出来た。
更に記せば、乳児院に続いてその子供たちを養育する施設が必要だった。このゼロム師の求めに答えたのが、「宮崎カリタス修道女会」である。来島は昭和33年(1958)。翌年名瀬小俣に養護施設「白百合の寮」を開園し、天使園で育った二歳児を引き受けた。こうしてシスターズの手で健やかに育ち、社会人となった者の中に一人の発病者もいない。今ではハ氏病遺伝説を信じる人はいない。そればかりか、シスターズの許で成長した女子の中には地元の信者と幸福 実りである。
しかし、パトリック師はこの成果を見ることなしに昭和29年(1954)奄美を去っている。幼きイエズス会が来島し天使園を開設する前年である。不幸な交通事故が理由だった。師の運転するジープに子供がはねられ死亡したのである。和光園の記録に、
昭和二十九年六月二十六日
カトリック司祭フィン・パトリック師送別会
とある。師は翌日午前十一時、和光園の信者に最後の別れを告げ、名瀬港に向かった。和光園に心を残して、傷心の離島である。当時の和光園事務長松原若安氏は
患者もその子も総てを神の子として私の兄弟、姉妹として彼等を 他の人々と区別することなく認め、実行したパトリック神父こそ真のハ氏病の理解者ではないだろうか。(創立三十年誌 奄美和光園)
と記し心から師を惜しんでいる。
ハンセン氏病者への奉仕を生涯の召命とした師は新任地フィリピンでも彼らの兄弟、姉妹となって献身した。が、過労のため急性肺炎となって、まだ若い生命を神に返した、と伝えられている。
パトリック・フィン師の影響はいまだに和光園に見られる。信者たちは家に師の写真を飾り、聖人のように尊敬している。心と愛情を惜しみなく与え、自分たちの一人となってくれた人を彼らは決して忘れない。
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