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2020年03月25日08:24

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キリシタン紀行 森本季子ー77 聖母の騎士社刊

私の奄美紀行ー41

 この問題でパトリック師は一歩も引かなかった。彼には有力な協力者ゼロム・ルカスゼフスキー師が付いていた。彼は昭和27年に来島し、カプチン会に代わって奄美の宣教を引き受けたコンベンツアル会士である。それに、松原若安氏の役目も忘れてはならない。
 地方ではハンセン氏病は遺伝という偏見が根強かった。これが伝染病の一種であることを証明するためにも、患者の子供を出産の瞬間から感染の心配がない環境に移す必要があった。最初、松原氏がパトリック師の依頼で自宅に嬰児を引き取り、家族が養育に当たった。その子供たちが数名になった時、一家庭では育て切れない。何とか恒久的な策を講じなければならない。奄美宣教地区総責任者となったゼロム師が、乳児院を開設するため本土から修道女を招聘する決心をした。これに応じたのが「ショファイユの幼きイエズス修道会」である。この会の来日は古く、明治10年(1877)キリシタン子孫の発見で有名なプティジャン司教の招きによる。通称「幼きイエズス会」の特色は恵まれない地域で、特に青少年の教育と社会福祉に献身することであった。これまでに西日本、九州で養護施設やハンセン氏病患者看護にも経験がある。

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