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2019年11月20日08:32

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我が町 キングストン ジャマイカー3


我が町ー6−3 キングストン、ジャマイカー3 ジャー・ヒロ

当時のタフ・ゴングは「ガンジャの砦」でもあった。まあ、あちこちで誰もがプカプカ吸っていた。ベースのファミリーマン・バレットはチャリスを片手にふらつきながら歩いていたし、僕がみんなが集まるベンチに腰掛けると途端にスプリッフ(ジョィント)が(やりな!)と差し出される。酒は強いがガンジャは弱い僕はふらふらになってしまい、見かねたブラガが「いいところがある」と連れて行かれたスタジオ裏のベンチで、雲からセラシエが出現する幻想と出遭ったのも、懐かしいタフ・ゴングでの最高の思い出だった。バーニング・スピアやラス・マイケルがレコーディングに現われた。そうルーツの神々とガンジャの濃厚な煙の中で「ジャー・ラスタファーライ!」の生きた信仰と出遭ったのだった。セラシエと出会った感動の中で「この歓喜はたとえ首を切られても信仰を守るようなもの。この歓喜の世界にラスタファリアンたちは生きているんだなあ」と思った。僕自身は、この至高の歓喜に恐れをなして、(これ以上ここにいたら、もう現世に戻れなくなる)という恐怖が心に湧き、ふらふらのままホテルまで歩いて帰ったのだった。そのまま、まだ太陽は高く輝いていたが、ベッドに倒れこみ、翌日まで眠ってしまう。しかし驚いたことに、翌朝目覚めても、まだ効いていた!ぼんやりしたまま腹が空き、買い置きしてあったバナナを食べた。すると胃袋から体が正気に目覚めていくのを感じた!このタフ・ゴングでの日々、録音中のスタジオの中はガンジャでもうもうという世界で、或る意味、ラスタファリの真髄に触れたような気がする。最初に日本人の僕達にジャマイカのラスタファリアンの世界を教えてくれた本、「レゲエ・ブラッド・ライン」の冒頭に、「ジャマイカはガンジャの力で空中に浮かんでいるような島だ」というような記述があるが、まさにその通りの島だったし、ボブ・マーリイの光輝に包まれた、当時のタフ・ゴングはガンジャの幻の中に生きていた。ああ、懐かしい。今は、ボブ・マーリイ博物館となってしまったタフ・ゴング。ここが生きている時代に訪問出来たことが一番の幸せだった。

ジャマイカに行って、もっとも重要な出会いは、ルーツ・シンガー、ウインストン・ジャレットとの遭遇だった。正直、僕は彼のことはよく知らなかったが、旅に出る前、1983年10月の原宿トレンチタウン開店の頃、熱心なボブ・マーリイ・フアンで、ボブのレコードはジャマイカ盤、イギリス盤(多分)、アメリカ盤、日本盤と全部買い揃えているという知人が「最近ウインストン・ジャレットにはまってる。彼はいいよ」と言った一言が耳に残っていて、それがために、くそ暑い日(大体くそ暑かったけど、その日は特に)の午後、物売りの声と自動車の騒音となんだか分からない叫び声が渦巻く、キングストンのダウンタウンの中心、パレードの広場で、汚い汗のしみたTシャツを着て、ビニール袋に入ったドーナツ盤を、観光客に押し売りしてる貧相な男が、僕に近寄り、「俺はウインストン・ジャレットだ」と言ったので、心中、ビックリ仰天した。プロのミュージシャンの厳しい暮らしの噂は聞いていたが、日本のコアなレゲエ・フアンをうならせるほどの男が、頬もこけて、いかにも満足に食べていない痩せ具合で、自分のレコードを売り歩いているということに。僕にとって、彼こそジャマイカの象徴そのものだった。(この時にチャンスリー・レーンで撮った写真が、後に彼のドイツ盤のアルバムのジャケットに使われた!)彼を通じて、ジャー・ライオンやビンギー・バニー等々のミュージシャンと顔見知りになり、一緒に飲んだ、というかたかられた。この83年の旅は伝説の人達と出会う旅だったなあ。キングストンにきて、一週間も経つ頃、走る市内バスの窓からイエロー・マンが誰かと立ち話をしているのを目撃。なんだかジャケット写真のような光景だなあと思う。そうそう、ブラガに案内された時には、映画、ハーダー・ゼイ・カムでジミー・クリフを助けるラスタの親子にも出会った。チャンスリーレーンの自分の店の前でグレゴリー・アイザックスが<金を盗まれたとかで>仲間を殴っているのを目撃したし、そこをイスラエル・バイブレーションの一人が「やあ、グレゴリー」と言って、通り過ぎた。そんな贅沢な日々だった。後にジャマイカを旅した或る人から聞いた話だが、キングストンの何かの店の主人と映画「ロッカーズ」(この映画を見ずにレゲエを語れないのだ。冒頭に流れるサタ・マサ・ガナの哀愁を帯びた旋律と(何故か)前に出て、愛と平和のメッセージを語り、また戻るラスタマン、<ハイアー>の後姿の、まるで座布団のようなドレッド・ロックスに誰もが感銘を受けたものだ。)の話をした際、彼が窓の外を指差し「外がロッカーズの世界さ」と言ったという逸話を思い出すが、そんな映画の世界を旅するような日々だった。帰国の日の朝、ジャレットは僕を仲間のドレッド(とても立派なドレッドだったが、85年に再会した時は「ポリスに捕まって切られた」そうで、坊主頭だった。反体制の象徴としてドレッドは憎まれていると感じた)の車で、まず彼の家(中廊下式の6畳一間のアパートで炊事とトイレは共同というような一部屋だったが)でギターを弾き歌を唄ってくれた。持ち歌とボブ・マーリイを一曲ずつ。左側の奥歯近くの歯が一本抜けていて、そこから空気が漏れるのが分かる声がとても(ジャマイカらしいなぁ)と感じた。感動した。そして次回は「彼を映像で記録したい」と告げ、空港に向かった。彼はいろいろ名文句を吐いたが、特に印象的な言葉が二つある。一つは混雑するパレードの広場で、「お前に手を出す奴がいたら、俺はそいつの喉をナイフでかき切ってやる」。(あれまあ、ずいぶん過激なことを言うもんだ)と思ったが、男は誰でも大きなナイフを持ち、何かあると、すぐ切りつける国柄にふさわしい言葉とも感じた。もう一つは空港で別れる際、「お前は鳥のように飛び立って国に帰る。でも俺はジャマイカという牢獄に囚われ続ける」というラスタらしい言葉が心に響いた。彼は、僕にとって、ルーツ・シンガーとしての信仰とメッセージを常に発酵させ、発信し続ける、尊敬すべき男だった。そして遠い国からきた異邦人の僕を「ブラザー(兄弟)」として受け入れてくれた優しいラスタファリアンだった。

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