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2019年11月13日07:06

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我が町 深沢


我が町ー5−1 世田谷区深沢ー1 ジャー・ヒロ
ここで僕は小学校4年生から二十代の終わり近くまで過ごした。大阪から引っ越してきた時には、家の周りは畑だらけだった。近所に園芸高校があり、そんなのどかな田園地帯だった。それから約35年、歯科医だった父親は引退して、千葉の妹一家の近くに住むために、家を売る。その時聞いて驚いたのは、地価が買った時の30倍になっていたということ。その金で両親は晩年を悠々自適で暮らすことが出来た。その時、両親の世代は戦争時代から戦後にかけて苦労もしたが、日本が右肩上がりの経済成長した恩恵に与(あずか)った世代でもあるんだな、と感じた。そういえば、この時代の象徴的な思い出がある。僕が中学生の頃、父親の患者さんに米軍の二世の人がいて、今でも「不思議な光景だったな」と思うのだが、近所にその家族の家があり、それはごみごみした日本家屋の中で異彩を放つ、あのアメリカ映画でよく見る、アメリカの中流家庭そのままの光景があったのだ。広い芝生の前庭にプールがあり、奥にゆったりした平屋があった。車はアメ車の黄金時代のフィッシュ・テールでばかでかいクライスラー。その車で逗子まで海水浴に連れていってもらった時、あまりにもふわふわのクッションで気持ち悪くなって吐いた。彼等はとても良い人達だったけど、その後帰国して、しばらく経ってから来日した際は、真っ黒な車の行列に警護されて我が家を訪れた。後で母親に聞くと、「警察の招待で来日した」という。そして「羽田空港の空港長は夫の部下だった人だから、なんでもアメリカから送れるから、何か欲しいものはないか?」と訊かれたとも言った。なんだか不気味に感じる。もしかすると、下山事件とか三鷹事件という、アメリカの諜報機関の犯罪と噂される事件にも関係する人間なのかもしれないな、と感じた。だいたい軍の給料で豪邸に住み、高級車に乗れるわけがない、何か裏の収入があったのだろう。僕にとって深沢は日本の戦後成長時代の思い出が凝縮している町だった。

初めて町にテレビが出現して、プロレスが全盛で、蕎麦屋が「テレビあります」の張り紙をして、力道山の試合を見に、満員の蕎麦屋に行ったのも、近所の家がテレビを買ったという噂を聞き、行くと、茶の間の窓が少し開いていて、そこに子供たちが群がって覗いていた(まだ小さく丸いブラウン管のテレビだった)のも深沢だったし、今の天皇の結婚のパレードをテレビで見たのも、東京オリンピックを見に行ったのも、テレビで見たのも深沢だった。ケネディ大統領が暗殺された日には、家の前でバイクの手入れをしていて新聞の号外を受け取りびっくりしたのも、アポロが月に降り立ったのも深沢だった。畑が少しずつ消えていき、井戸水で暮らしていた町に水道が引かれ、「不潔だから井戸水は飲まないように」と保健所から通達がきて、水道が主役になった。以前は薪(まき)で焚いた風呂もガスに代わり、初期の手回しの脱水機がついた洗濯機がやってきたのも深沢だった。その時代の庶民の暮らしを笑いで描いた「サザエさん」の長谷川町子が住んでいたのは深沢の隣町、桜新町。そういう意味で「サザエさん」を身近に感じた。

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