聖母文庫 聖母の騎士社刊
とうとう私も決心して、
「われは主のつかいめなり、仰せの如くわれになれかし」
と心に祈りながら、私の家のリヤカーを引いて堂々と街に飛び出しました。
「蟻の街」のある聖天町から私の家の花川戸にかけて、右も左も履物問屋ばかりですから、毎朝荷をほどくたびに出る菰(こも)、わら、縄の数量は大変なものでした。でも、いつ行っても、それが手に入るというわけではありません。
一番いいのは、日没の少し前、お店の仕事が一段落ちついて、ご主人や番頭が着物の塵を払って、夕食のために奥に姿を消す頃でした。その時刻には、お店の若い人たちは、少しでも早く店を片付けたいので、惜しげもなく縄やわらを下さるからです。
私たちは、家の前を右に進んで、東武線のガード下をくぐり、言問橋の袂まで行くと、逆戻りをして、電車通りの反対側を拾いながら、松屋のところまで帰って来ました。
私たち、一人一人が捕鯨船で、リヤカーは捕鯨母船です。
「あった、あったぞ」
「あそこにも、あんなにあるぞ」
子供たちは、一々大きな声をあげて獲物に向かって突進して行きます。道行く人々は、あきれかえって、立ち止まったらふり向いたりしていますが、私もすっかり平気になって、縄屑がはみ出しているゴミ箱があると、ニコニコして蓋をあけるようになりました。
リヤカーはすぐ一杯になりました。すると、それを、守男ちゃんか、黒ちゃんが私の家まで運んでカラにして帰って来るのです。その間も、私たちは少しも手を休めずに、ずんずん拾って歩きました。
「さあ、もうリヤカーで三台分拾ったから、ここから帰りましょう」
と、私は松屋の角で申しました。実を言うと、私は浅草に住みながら「蟻の街」に行くためのこのコースと、あとは今戸、本願寺をむすぶ三角形の線しか知らなかったのです。
その日の獲物を、翌朝、蟻の街に持って行って仕切ったら、縄やわらが約十二、三貫あって、百円以上になったと憶えています。
ログインしてコメントを確認・投稿する