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2019年04月09日06:28

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閔妃(ミンピ)暗殺(朝鮮王朝末期の国母)角田房子著 新潮文庫ー27

(※は本文より転載)

 王妃になるまでの閔少女は、どこで育ったのか。『大韓季年史』によれば、その生誕地は「京幾道(キョンギ)ヨ州郡(ヨジュグン)根東面(クンドンミヨン)、閔致禄私邸」である。
 精神科医で随筆家の季撥東(イギュドン)(現、季撥東神経精神科医院長、ソウル大医大外来副教授)は、その著書『偉大なるコンプレックス』(1985年出版)の中に次のように書いている。
 「閔妃の成長期についての記録はないが成長したのはソウル安国洞(アングクトン)の感古堂(カムコダン)であったと伝えられている。彼女がここに移ったのは父母と死別した後か、それ以前か、年代は明確でない。感古堂は粛宗(第十九代の王)の継妃であった仁顕王后(閔氏)の実家の所有で、のち閔氏一族がかわるがわる使った家であることから、おそらく閔妃は父母と死別した後ここにあずかられたのであろうと考えられる」
 ”継妃”とは初めの王妃が死んだ後に迎えられた二度目の王妃のことで、民間の言葉でいえば後妻である。
 一九八五年(昭和六十年)五月、私は閔妃の生家を訪れた。ソウルから東南へ車で一時間あまりの静かな農村地帯で、現在の地名はヨ州邑峴里(ヨジュウプヌンヒョンニ)である。
 屋根つきの古い木造の門をはいると、荒れた庭をへだてて、門とおなじくらいの年代に見える一棟があった。黒光りの太い柱のある部屋の軒先に、孫娘の守りをする腰の曲った老婆(ろうば)がいた。ここが閔妃の時代から数えて三代目の閔家だと、彼女が答えた。
 「わしが嫁いできた頃は、もっと大きな家だった」と語りながら、老婆が家の外を案内してくれた。門を出て左へ、塀(へい)が終ったところからかなり広い空地になり、空地の先に韓国独特の鮮やかな色彩の堂があった。昔はここまでが閔家の邸であったという。老婆は堂を指して、「ここが閔妃の勉強部屋があった所」と言った。堂の中に二メートル半ほどの白い石碑があり、正面に「明成皇后誕降旧里」、横に「光武八年甲辰五月 日拝手飲梯敬書」とある。閔妃の実子、季氏朝鮮王朝最後の王であった純宗の筆跡(ひっせき)である。
 堂を背にして立つと、前方は一望の水田で、その目にやわらかい緑の広がりをときどき白い線が走る。白鷺(しらさぎ)である。前方だけでなく、左右までも、なだらかな低い山々が遠く霞(かす)んで見える。幼い日の閔妃が目にした風景そのままであろう。変化といえば、白鷺の姿が少なくなったくらいであろうか。
 老婆に案内されて、家のうしろの丘に登った。頂上に周囲とは不似合なほど立派な墓があり、「これは仁顕王后の両親の墓で、閔妃のお父さんが墓守りをしていた」と老婆が言った。墓には「閔合維重之墓」とあり、その左に季氏と宋氏という二人の妻の名がある。
 感古堂で育ったといわれる閔妃と、夫王から生家の両親を住まわせよと感古堂を贈られた仁顕王后との間には、こういう縁があったのだ。仁顕王后の夫は十九代の王、閔妃の夫は二十六代の王で、時代は二百年隔たっている。だが閔妃は単に閔家の娘というだけでなく、両親の死後に感古堂に引きとられる条件を具えていたということであろう。
 感古堂のあった場所は景福宮と昌徳宮のほぼ中間、現在の徳成女子高等学校である。

 閔妃を調べ始めてから本書を書き上げるまでのほぼ三年間、私は閔妃や大院君に心を添わせて彼らの心情をさぐろうと努めてきた。想像の中の閔妃は、彼女の命を絶った人々の同胞である私に常に冷たい視線を向け続けてきた。その閔妃がただ一度示してくれた”ご愛嬌(あいきょう)”は、生家を訪れた私に彼女の末裔(まつえい)を見せてくれたことであった。
 知賢(チヒョン)という名のヨチヨチ歩きの幼女と閔妃とのつながりはかなり遠いが、それにしても「骨細の華奢な体つきの美女」であったという閔妃の末裔としては不似合な、はち切れそうに肥(ふと)ったまっ赤な頬(ほお)の健康優良児であった。私によくなついた幼女を膝に抱いて日本語で話しかけると、意味もわからぬままに明るい笑顔を傾けてうなずいてくれた。膝に伝わる幼女の体のぬくもりを、閔妃が私に示してくれた親しみのように感じた日を、私はいつまでも忘れないだろう。※)


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