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2019年04月05日07:52

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閔妃(ミンピ)暗殺(朝鮮王朝末期の国母)角田房子著 新潮文庫ー24

(※は本文より転載)

 一八六六年三月二十日(陰暦)、昌徳宮の仁政殿(インジョンジョン)で王妃冊封の盛大な式典が挙行された。高宗は数え年で十五歳、閔妃も数え年では十六歳だが、『大韓季年史』の「哲宗二年辛亥九月二十五日生れ」が正しければ、彼女は満十四歳六か月であった。朝鮮王朝史に閔妃の登場である。
 この日の閔妃の服装を知る資料はないが、服飾研究の第一人者である壇国(タングク)大学校大学院教授、民族博物館館長の石宙善教授は、白髪にピンクの韓服のよく似合う小柄(こがら)な老夫人であった。
「王や王族はもとより、高官たちの服装は形も模様も色もすべて厳しく定められていました。たとえば、竜の模様は王夫妻とその直系だけが用いるのですが、それも王と王妃は五爪の竜、王世子は四爪の竜、王世孫は三爪の竜と定められておりました。」
 王妃冊封の日の閔妃は、この国の女性の中でただ一人使用を許される金糸縫いとりの丸い”五爪竜補(オクワリヨンポ)”を、胸、両肩、背の四カ所につけたきらびやかな大礼服姿であったろう。瑞鳥(ずいちょう)として王妃の服装にしばしば用いられた雉(きじ)の模様も、その布地に織りこまれていたかもしれない。
 頭には、左右に大きく張り出したハート形のクンモリと呼ばれるかつらを高々とのせ、さらに王妃の権威を誇示する数々の飾りが用いられる。”クンモリ”は昔は人間の毛髪を香油で固めて作られたが、高宗の時代には木製であったという。
「第一礼装の時のかつらは大へん重くて」と、高宗の第三王子で朝鮮王朝最後の王太子(王世子)英親王(ヨンチンワン)の妃であった李方子(りまさこ:梨本宮<なしもとのみや>正王の長女)は語った。「一人では頭が動かせないほどでした。歩く時は、背の高い女官にうしろから支えてもらいました」
 大正十一年(一九二二年)、初めて朝鮮を訪問した時の思い出話である。
 いま未亡人である李方子は、かって閔妃が成婚の式典を挙げた昌徳宮内の楽善斎(ナクソンジェ)に住み、亡夫英親王の遺志をついで、心身障害児の福祉事業に献身する日々を送っている。楽善斎は、昔から未亡人となった王妃や王太子妃の住むべき場所であった。
 戦後の韓国には排日の嵐が吹き荒る時代もあったが、韓国の人々は、「そんな時でも、日本の皇族だった方子妃に憎しみの気持を向ける者は一人もなかった。我々は方子妃を同胞として受け入れ、深い敬愛の念を抱いている」と語っている。

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