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2019年04月01日08:06

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閔妃(ミンピ)暗殺(朝鮮王朝末期の国母)角田房子著 新潮文庫ー20

(※は本文より転載)

 不遇時代の長かった大院君は、自分の体験を通して中人やそれ以下の人々の生活とその感情をよく知っていた。おそらく、それまでの権力者に例のないことであったろう。彼はかってつき合った庶民の中から多くの人々を選んで一種の親衛隊を組織し、情報や市井(しせい)の動向をさぐらせた。これは大院君の政治体制強化を支える陰の力となった。※)

閔妃登場

 (前王哲宗の三年の喪があける頃から、王室では王妃冊封(冊封)が話題となり、国民一般もこれに強い関心を持つようになった。王室には三代にわたる大王大妃、王大妃、大妃の三未亡人のほかに、累代の側室など多数の女性がいたが、その中心となるべき王妃は空席のままであった。
 大院君はわが子が王となって以来、《王妃選びは慎重の上にも慎重でなければならない》と思い続けてきた。安東金氏一族の六十余年の勢道(セド)政治は、大院君個人の生活を苦境におとしいれただけでなく、国運を傾けるまでの腐敗ぶりであった。それもこれも、王妃の親族の専横が原因であった。その轍(てつ)を踏んではならぬという大院君の固い決意は、《我ながら、よくも耐えた者よ》と自らをいたわらずにはいられない屈辱の体験に裏づけられていた。
 大院君はかって金炳学に協力を求めたとき、「わが子が王位についたら、あなたの娘を王妃にする」という条件を提示していた。しかし今や大院君はその約束を守る気はなく、金炳学の人物を認めた上でのことだが、彼がそれだけで満足するはずの左議政という高位を与えていた。金一族が没落したのちも政界に生き残った金炳学は、わが娘ならぬ女性が王妃に決定した翌年、領議政という最高位にまで登りつめる。

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