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2019年03月31日10:24

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閔妃(ミンピ)暗殺(朝鮮王朝末期の国母)角田房子著 新潮文庫ー19

(※は本文より転載)

 高宗三年、一八六六年初め、趙大王大妃の摂政の期間満了と共に垂簾政治は廃止され、六十二歳の彼女は引退して、高宗の親政が行われることとなった。だが高宗はまだ十四歳の若年である。大院君の執政は名実ともに強化され、彼は閣僚の最高位である三政丞(領議政とその下の左、右議政)をはじめ、官位を一存で決定する権力を握った。
 大院君は国王(高宗)を中心とした国家紀構を強化するため、すでに人事の改革に着手していたが、それはこの時からいっそう積極的になった。
 大院君の執政決定から間もなく、領議政であった金左根が引退したのをはじめ、金氏一族は次々に官職を終れていった。
 領議政の後任には趙斗淳が据(す)えられた。かって大院君がわが子を王位に、と暗躍中に密約を結んだ金炳学は、金氏一族であるが、趙斗淳の後任として左議政に任じられた。
 両班(ヤンバン)内部で四色(サセク)と呼ばれる老論、少論、南人、北人の間の党派争いは、長いあいだ朝鮮封建政治の病弊であったが、大院君は老論の専横を押えて、それまで南人であるため不遇であった柳厚祚(ユフジョ)を右議政に抜擢(ばってき)するなど、彼の大胆な人事は人々を驚かせた。さらに地方的差別を受けていた西北人や開城(ケソン)の高麗王族の子孫にも官職の道を開いた。
 また地方官吏と結託して悪事を働いた中央官吏を流刑(るけい)に処すなど、やつぎばやな粛清が行われたため、地方の民乱は次第に下火になる傾向を見せていた。大院君が目ざしたのは、従来の勢道政治を背景とした門閥、党色、賄賂(わいろ)などに支配された人事の打破であり、人材登用を妨げていた各種差別の撤廃であった。

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