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2019年03月14日07:46

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閔妃(ミンピ)暗殺(朝鮮王朝末期の国母)角田房子著 新潮文庫ー3

(※は本文より転載)
豊臣秀吉による友好関係の破壊

(一時中断していた使節団派遣が復活したのは千五百九十年、豊臣秀吉から朝鮮国王の入朝を勧告するように命じられた対馬の宋(そう)氏が、入朝要求を使節団派遣要求にすりかえて折衝した結果、実現したものである。
 それから二年後の一五九十二年、秀吉は約十六万人の大軍を送って朝鮮の不意をついた。”文禄<ぶんろく>の役<えき>”である。
 日本軍は二十日でソウルを陥<おと>し、緒戦では大勝利を収めて、一時は朝鮮のほぼ全域を占領した。しかし占領軍の暴虐<ぼうぎゃく>にまず農民が立ちあがり、下級官吏や知識層、また僧侶<そうりょ>も武器をとって激しく抵抗し、それらはまもなく組織的な反撃となった。やがて明の援軍も参加し、日本軍はソウル以南に後退した。
 海戦も日本軍優勢は緒戦の一時期だけで、潮流利用の巧みな李舜臣<イスンシン>の水軍は日本側に壊滅的な打撃を与え、陸への補給路を断ち切った。この海戦は、亀の形をした鉄甲張りの戦艦”亀甲船”の初の活躍によって名高い。陸上の日本軍は義兵の抵抗と飢えに苦しむ。
 一五九十三年、和議が開始され、交渉は延々と続いたが、ついに条約締結には至らなかった。
 一五九十七年、秀吉は再び十数万の大軍を朝鮮に送った。
 まず海戦は、左遷<させん>されて緒戦に参加できなかった李舜臣が再び総指揮官になるに及んで、日本軍は惨敗し、制海権を失った。今も韓国の人々に”救国の名将”と語り継がれる李舜臣が戦死したのは、このときである。
 陸上の日本軍は三方から全羅道<チョルラド>を目ざして進撃したが、今回は朝鮮も戦備をととのえて防衛につとめ、また明も水陸両軍を送ってこれを助けたため、苦戦の連続であった。やがて海戦の大敗などをきっかけに日本軍の敗走が始まり、南部海岸地帯での苦しい持久戦となった。
 一五九十八年、秀吉の死によって戦争は終る。七年にわたる二度の戦役で秀吉軍は精鋭部隊の大半を失い、敗戦が武将間の反目を生んで、豊臣政権崩壊を早めるほどの痛手を受けた。また朝鮮も人命の犠牲は大きく、国土は荒廃し、貴重な文化財が破壊され、学者や技術者を含む多くの人々が日本へ連れ去られるなどの大被害を受けた。※)

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