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2018年11月05日09:42

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我が町ー3−1 大阪市西淀川区大和田町ー1 ジャー・ヒロ

 大阪市西淀川区大和田町

 この町で、僕は幼稚園時代から小学校4年生まで過ごした。この昭和20年代の大阪の下町で。近隣には復興した工場の群れが煙突から真っ黒な、あるいは灰色の煙をもくもくと吐き出し、それらの周囲には工場排水で真っ赤や真っ青な沼が散在していた。近くの淀川か武庫川にかかる橋の一つは空襲で焼け落ち、無残な残骸をさらしていた。かろうじて焼け残った淀川の橋には、釣り針を垂らす職のない人々がいつも並んでいた。我が家は二階建ての長屋の一軒で、今から思うと、戦災による焼け野原に手作りのバラック(掘っ立て小屋)が点々と建っていて、新築の我が家は、子供の僕には、大きく輝かしいビルのように映ったものだった。
 そうそう、僕の幼稚園時代、大変な事件が起きた。前に書いた「僕の危険な体験」の中でもトップクラスの出来事が・・・。僕の通った幼稚園に行くには、踏み切りを渡る必要があったが、自分で歩いて通っていた。そして或る日それは起きた。今でもよくある話と思うが、踏み切りの警報が鳴っていても、(まだ大丈夫)と無理に渡る人間がいたらしく、それを見た僕が、その人を見て、(まだ大丈夫)と接近する電車の寸前で渡ろうとした。電車の運転手が(轢いた!)と思って急停車したくらいだから、ほんとにその時死んでいても不思議はなかったのだろう。ところが小さな僕は危険に気付かずとことこ歩いていた。偶然その電車に警官が乗っていて、放っておけず飛び降りて、「ぼうや、ぼうや。ちょっと待ちなさい」と声をかける。驚いた僕は必死に走って逃げて、とうとう家まで逃げ帰った。(どうもその頃からおまわりを見ると逃げる癖があるみたい)家まで追っかけてきた警官 に事故の顛末を聞いた両親はびっくりして、結局その幼稚園に行くのを止めた。その事件を思い出すたびに、(映画の一シーンのような話だなあ)と思う。とにかくよく生きていたものだ。

小学校時代は世の中はチャンバラ・ブームだった。時代劇映画全盛の頃で子供たちの遊びといえば、やはり剣戟ごっこ。セピア色に変色した一枚の写真がある。それを見ると、近所の遊び仲間が全員集合で、僕も自慢げに手作りの木刀を腰に差している。そして一番年長で仲間内のボスだった、自転車屋のなんとかちゃんの顔に鉛筆でぐりぐりした後があり、後にそれを恥じた僕は消しゴムで消したが、ぐりぐりだけは残っている。詳しいことは忘れたが、彼に泣かされたことがあったのだろう。まだ車なんか僅かしか走っていない時代。町内の道路は子供たちの天下で走り回り、喧嘩し放題のいい時代だった。大人のほとんども仕事がなく、子供のように、当時やはり全盛だった、東京ではメンコ、大阪ではベッタン(と言ったと思ったが)で金を賭けて勝負している光景をよく見かけた。僕も命の次に大事なものと、机の引き出しの中に溜め込んでいた。絵柄は野球選手や映画スターが多かったような気がする。

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