こないだの日記のコメント欄でマイミクさんと山口百恵の歌に関してやりとりをした。
そのときの僕のレスの一部。
「学生時代のリアルタイム、街角でこの「プレイバック Part2」が流れているのをふと耳にして、へえ、百恵ちゃんの新曲、斬新な感じで決めてきたなあと思ったことをなんとなく覚えています」
なんとなく覚えているというその場所は仙台の一番町、青葉通りを渡った先、ボンボン会館があった辺りだ。 そこのアーケード街をぶらついていたときに百恵ちゃんの新曲が流れてきた。
今はこういうビルが建っている界隈だと思う。
この写真は2019年の5月に撮ったものだ。
その日、僕は叔母さんの葬儀に参列するために日帰りで仙台に行ってきたんでね。
大宮から仙台まで東北新幹線の最速はやぶさに乗ると1時間そこそこで着いちゃう。
で、お葬式が始まるまでの間、懐かしい街角を散策して、こちゃこちゃとスマホで撮影して回ったんだよ。
僕はこの仙台という街に2回住んだことがある。
1回目は学生時代の4年間。
2回目はそれから10数年後、結婚して息子も二人出来たとき。仙台に転勤したので家族4人で引っ越してやっぱり4年ほど住んだ。
最初の下宿生時代も2回目の家族で社宅住まい時代も楽しかったことが思い出の中心になっている。
そんなことで実にね、思い入れがある街なんだよ。
直近赴いた2019年には当時の諸々は大分変っちゃってたけど、それでも駅前のペデストリアンデッキから眺める風景はやっぱり仙台だったし
漫画読み放題のカレーショップ酒井屋も
その奥の路地も健在だった。
そして想い出の方は今でも鮮明に残っている。
例えば流行り歌だ。
たいていの人がそうだと思うんだけど、若い頃の想い出ってやつはそのとき流れていた音楽とワンセットになっていることが多い。
なにしろ若い頃、要するに青春時代は感性がビンビンなんでね、音楽もビンビン体に入り込んでくる。
それはジャズやクラシック音楽のときもある。 おいらも一番町にあったジャズ喫茶「スイング」やクラシック喫茶「無伴奏」でのあのときこのときのことをそのとき流れていた音楽とともに思い出すことが出来る。
しかし、もっと圧倒的に多いのがそのときどきの流行り歌だ。
なにしろ、流行り歌ってやつは流行ってるだけにそこら中で鳴ってるからね。
それは現代の佐賀の若者たちにとってはフランシュシュの演奏なのかもしれない。
あるいは10年前の北高の学生たちにとってのハルヒたちが演った音楽。
なんだかよくわからない世界の若者たちにとっては
お前の父ちゃん
。
とにかく、いつの時代も若者たちに向けて流行り歌を歌うミューズだちがいる。
僕の学生時代、第1回目仙台生活時代にはこの人なんかが人気者だった。
いや、うちはお好み焼きなんかのホットプレートを使う料理のときはまず新聞紙をテーブルに敷くんだけどさ。
それは僕の仕事なので、気に入った紙面を自分の前に広げる。
で、こないだは太田裕美の近況を伝える記事を選んだんだよ。
僕の学生時代はこの太田裕美の全盛期でね。
受験勉強に明け暮れていた冬に出た「木綿のハンカチーフ」でブレイク。大学生になった頃には歌謡界のニュースターになっていた。
そして、僕は彼女がハンカチーフの次に出した柳の下の二匹目のドジョウ狙い的な曲想の歌がパチンコとリンクしてるんだよ。
というのも、山口百恵のプレイバックを聴いたのはボンボン会館の前辺りだったけど。
「赤いハイヒール」はそのパチンコ屋の中でしょっちゅう聴いたもんだからさ。
さっそく聴いてみようじゃないか、僕のP店ソング。
赤いハイヒール 太田裕美
https://www.youtube.com/watch?v=a0R6bikEzBg
同じ頃、もう一人の歌姫が歌謡界でブレイクした。
僕はこっちは高山書店で最初に聴いたのを覚えている。
もっと前にも聴いていたのかもしれないけど、とにかくその本屋をぶらついていたときに何気に聴いて、ああ、いい曲だなと思ったことを未だに覚えている。
高山書店って言われても、なんだそりゃ?の人が多いと思うけど、70年代後半当時の仙台ではあちこちにあった書店でね。
僕が「ロマンス」が店内で流れるのを聴いて感銘を受けたのはその中の仙台駅前店、東宝劇場と同じ建物に入っていた店だった。
岩崎宏美 ロマンス
https://www.youtube.com/watch?v=s9kTtC3pllQ
大分前、その道の専門の人が日経の文化蘭に寄稿した日本の歌謡曲史みたいな随想にこんな一節があった。
阿久悠と筒美京平という昭和を代表するヒットメーカー同士がコンビを組んだヒット曲は案外少ない。「また逢う日まで」と「たそがれマイ・ラブ」ぐらいである。
僕はへえと思ったもんだけど、「ロマンス」もしっかりこのコンビの曲だった。
「赤いハイヒール」の方は(僕の勝手な想像では)ポスト阿久悠の座を阿木曜子と争っていた頃の松本隆が筒美京平と組んだ一発。
そして、こないだ国際フォーラムで開催された筒美京平追悼コンサートには、岩崎宏美と太田裕美、二人のヒロミが揃ってステージに立ったようだ。
一方、この時代に作詞家と作曲家のみならず歌手まで兼ねるシンガーソングライターとして台頭したのが荒井由実だ。
太田裕美の記事の前のホットプレート回、下敷きにする新聞から僕が見つけたのがそのユーミンに関する記事だった。
類人猿が架け橋となって大ファンだったユーミンを自分の研究所に招待できた動物学者の人の記事。 彼女は小さい頃にジブリの「魔女宅」を見て「やさしさに包まれたなら」を初めて聴いてハマったという。ううむ、光陰矢の如し。。
僕がユーミンの曲を始めていいなと思ったのはそれより10数年前で大学生になりたての頃。なので、やっぱり仙台一番町の街角だった。
「プレイバック」や「赤いハイヒール」を聴いたのと同じ界隈。
なんでその辺ばっかりうろついていたかというと、そこには当時名画座があったからだ。
今は並びの建物の2階に入ってる喫茶店エビアンぐらいしか面影は残ってないけどね。
とにかくその界隈で「冷たい雨」を聴いてセンスがある曲だなあ、誰が歌ってるんだろうと思った。
ただし、そのとき僕が聴いたのはハイ・ファイ・セットのヴォーカルだった。
冷たい雨
https://www.youtube.com/watch?v=qJyLWYGHyrU
洋盤も行ってみようか。
まずはイージーリスニングのカバーね。
おいらはこのジャンルでは、ポール・モーリアの「恋はみずいろ」が1番なんだけどさ。
2番はこれなんだよ。
なんでこれが2番かというと、マルミツという百貨店がしょっちゅうBGMで鳴らしてたので耳に馴染んだから。今はもうないけど、写真の駅前青葉通りの右側の辺にあった。
なんで学生の身で百貨店なんかに行ってたかというと、そこの書店コーナーで立ち読みが出来たから。
特に秋田書房の「あばしり一家」がそろっていたからだ。
で、そういうバイオレンスチックなコミックスを読みながら、聴くともなしに聴いていたのがこのミュージックなんだよ。
そよ風の誘惑 _ Have You Never Been Mellow _ Paul Mauriat _ ポ−ル・モーリア・グランド・オーケストラ
https://www.youtube.com/watch?v=m0LY8mpPgCQ
本屋つながりでいくと、マルミツから青葉通りを一番町に向かって少し行くとダイエーがあった。ダイエーは青葉通りとは反対側の中央通りというアーケード街にも面していた。
そっち側の入り口に書店コーナーがあったので、なにかのついでにちょいと寄ることがままあった。
ちょいとですませたのはそこは漫画の立ち読みが出来なかったからなんだけど、アーサー・C・クラークの文庫本なんかを買ったりしてた。
このSFの古典を買ったときに流れていた音楽も覚えている。
なので、僕は永井豪とポール・モーリア、アーサー・C・クラークとロッド・スチュアートがワンセットの記憶になっている。
Rod Stewart - Da Ya Think I'm Sexy? (Official Video)
https://www.youtube.com/watch?v=Hphwfq1wLJs
このヒット曲がパクリだったことを知ったのは大分後のこと。
一方、同じアーケード街で耳にした日本の歌謡曲を聴いたとたんにこいつはパクリだと思った。
演歌調の歌詞にして装いを変えているけど、このメロディラインはビートルズの「Don't Let Me Down」そのまんまじゃないかと思った。
もっとも、この分野の識者であるマイミクさんによると、出だしが多少似ているだけで、盗作云々するほどのものじゃないよということだったし、世間的にも問題視する向きはいないようなので、おいらの思い過ごしだったのだろう。
それに歌自体はおいらのお気に入りの一曲だしね。
どのくらいお気に入りかというと、その後社会人になってカラオケスナック(ボックスはまだなかった)に出入りするようになったとき、持ち歌にしてソラで2番まで歌えるようにしたぐらいだ。 それがこの曲。
あんたのバラード・・世良公則とツイスト
https://www.youtube.com/watch?v=DQXVVphWj4g
もちろん、学生時代の思い出の曲はほかにもいっぱいある。
というか、いくらぼやーっと生きてきたおいらでもさ、もうちっとドラマチックなシーンに流れていて心を震わせた曲はそれなりにある。
ここで僕があげてきたのはそういうのではなくて、一人で街や本屋やパチンコ屋をぶらついていたときになんとなく耳に入ってきてなんとなくそのときのシーンと一緒になって脳内に残っている曲たちだ。
学生時代はそういうことがしょっちゅうあった。
それは昭和の流行り歌には今どきのものよりもパワーがあったからだという向きもいる。
そうなのかなあ。。70年代後半の流行り歌は僕にとってはもちろん特別なものだけど。
それより昔に若者だった世代にはその時代の流行り歌が特別なものだろうし、今の若者にとっては今の流行り歌が特別なものであるに違いない。
要するに流行り歌そのものよりも受け手の側の状況に起因するんじゃないかなと思う。
70年代後半当時の僕は感性がビンビンだったんでさ。皮膚呼吸するように周りで流れる音楽を吸収していった気がするんだよ。
で、周りを流れる音楽は圧倒的にそのときの流行り歌が多かった。
そういう単純な理由が大きいように思う。
もうひとつの理由も僕の側にある。
なにしろ当時の僕はヒマヒマ星人の大学生だったからね。一番町やら定禅寺通りやらをしょっちゅう無目的にふらついていた。
これに対して同じ仙台に住んでいてもそれから10数年後の30代の家族持ちになった僕は街を移動するとき常に目的地に向かって最短コースを選んだ。
しかも、同じ一番町でも青葉通りや中央通りからは多少離れたタワービルの中に職場があったので、その周辺を動き回ることが多かった。
仕事がハネて職場の仲間と呑みに行くのは歩いてすぐの国分町専門になったしね。
この違いは大きい。
学生時代は無目的にふらふら。社会人になると目的地に向かって直線コース。
ふらふら歩いていた方が周りを流れている音楽をなんとなく体感する機会が多いと思う。
この人らはそういう学生時代をモラトリアム期間と呼んだ。たしかに言いえて妙だ。
そういうモラトリアム時代のおいらが暮らしていた頃、仙台で爆発的にヒットした歌があった。
全国的にもそこそこには売れたんだろうけど、地元での流行り方は尋常じゃなかった。
駅前でも
中央通りでも
藤崎の前でも
お茶屋さんの前でも
とにかくどこを歩いていてもこの曲が流れてきた。
もう仙台における電波ソングといっても過言ではなかった。
それがこの歌です。
青葉城恋唄 さとう宗幸
https://www.youtube.com/watch?v=qtioo6v1iLg
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