黄金の9連休も最終日。 年末年始や夏休みのときもいつもそう思うけど、ほんとにあっちゅうまだった。
前半はわりかしアクティブに過ごした。
相棒のろまさんと一緒に上野で無花果さんの彫刻を鑑賞してそのあと飲んだ。 その翌々日も今度は僕の地元の浦和で一緒に飲んだ。
で、最初の飲みではメガネを失くした。 さらに次の飲みでは財布を失くしちまった。
これにはマイッタ。 カミさんなんか呆れるのを超えて呆然としてしまった。 で、前の晩の記憶を尋問されたんだけど、ある時点を境にぷっつりブラックアウトしててねえ。
「このままだと、記憶がないまま人を殺してもおかしくないわよ!」
おっしゃるとおりです、とこうべを垂れるしかなかった。
ところが、なんと! ダメ元で届けてた駅前の交番から電話があった。 財布が見つかったと! で、慌ててチャリンコをこいで出かけたら。 たしかに僕の財布だった。
財布の中にはお札の他にカード、健康保険証、帰阪のための新幹線チケットなどなど。
そのまんまぜんぶ入ってた。
拾ってくれた方にお礼をしたいと申し出たら。 巡回中の警官が取得したのでお礼は無用だと。 僕はその場にいた皆さんに深々と頭をさげて交番を後にした。
埼玉県警、バンザイ!
まあ、こんな顛末があったのが連休折り返し日の5月3日。
で、後半は家で静かに過ごそうと思ったわけだ。
財布は戻った。 メガネはないけど、即席で作ったコンタクトレンズはわりかし快調。
ここは心機一転して黄金週間を満喫しよう。 ただし、おとなしくしながら。
僕は幸いそのための最適なアイテムを用意していた。
村上春樹の最新長編、「騎士団長殺し」2部。
多くのマイミクさんには耳タコだろうけど。 僕はこの作家が大・大・大好きでねえ。
新刊が出ると速攻で買って読むことにしてる。
で、今回も2月の発売当日に大阪の紀伊国屋で上下巻ともゲットした。
ただ、できれば一気読みしたい、そのタイミングがうまくつかめないままズルズル先送りしちゃってねえ。
このGWこそ好機ということで、帰省のバッグに入れてきてたんだよ。
で、4日の朝から取り掛かって6日の昨日、読了したわけだ。
読書場所は常に自宅のウッドデッキだった。
今年の正月にひいこら言いながらペンキ塗りしたウッドデッキ。 そこにディレクターズチェアを持ち込んでね。 ひがな読書に明け暮れたわけだ。
イメージ的には(あくまでイメージ)、この二つの組み合わせ。
この3日間は陽気がよかった。 明るい日差しを浴びてのんびりするとねえ。
気分はもうアラン・ドロンだったよ。
トム・リプレイは友人を殺して、その莫大な財産と美しい恋人を手に入れて、ニースかどこかの海辺のデッキチェアで陽を浴びながら、「太陽がいっぱいだ」と呟いた。
僕の場合は浦和のシャビーな設えだったけど、好きな小説が手元にあった。
ニーノ・ロータに負けないBGMだってあった。 近所の中学校の吹部の練習音。
トム=アランはカフェのおばさんになにかのカクテルを運んでもらって口にしてた。
僕の場合は安ワインや缶酎ハイが主だったけど。 もう一つ、これがあった。
次男のさぬき旅行土産の地ビール。濃厚な味の黒ビール、その名は「父帰ル」。
さらにツマミも豊富だった。
初日はポテチを用意したんだけど、これはイマイチ。 次の日に近所のスーパーで業務用的5袋入りを買ったこれが最適だった。
皆さんにもこのほどよく甘くてしょっぱい昔ながらのスナックをお勧めするよ。
ギンビスのアスパラガスビスケット
で、まあ、そういう最高の環境で最高の小説を手にしながら、なんで読了するのに3日間もかかったかというと。
一応、上下巻合計で1000頁以上の長編だというそもそも論はおくとして。
一つには僕の寄る年波ということがある。
かつてはチャンドラーやヘミングウェイ、サリンジャーみたいないかにもなものはもちろんのこと、高橋和巳みたいな憂鬱そのものなのやサルトルみたいなおいおい的なものまで一気読みできたんだけど。
今は大・大・大好きな村上春樹本でも1日じゃ読めない。
特に夜がダメになっちゃって、布団の中で読もうとしてもすぐに寝落ちする。
もう一つには、諸業務からは逃れられないということがあった。やっぱ、いくらリゾート気分とはいっても、しょせんはじぶんちのベランダなんでさ。いろいろあるわけだ。
例えば、初日は小説に没頭していたときにカミさんから指令がきた。 お隣がクルマで外出したからやるわよ!
なにかというと、庭木の枝切り。
うちとこの家の庭はクルマとチャリの置き場がほぼすべてなんだけど、それでも猫の額のようなスペースに木が植えてある。
一本は金木犀で、もう一本は名前は知らないけど花と実がなる木。 で、これがけっこう背高のっぽの連中で、頭は2階まで届きそう。 なので、普通の剪定鋏では届かない。
でも、今の時期に枝を刈っとかないと、夏場にはもしゃくしゃになって、秋には枯葉が大変なことになる
で、毎年この時期にお向かいさんからマジックハンドみたいな鋏を借りて、剪定作業をしているわけだ。
イメージ的には(あくまでイメージ)、こういう感じ。
で、枝を切れば落ちる。 お隣さんのクルマの屋根に直撃させるわけにはいかない。
ということで、お隣さんが出かけたのが枝切りの好機だったのはたしかにそうなわけだ。
で、夫婦二人でせっせと枝切りをした。 基本的なフォーメーションはどっちかがマジックハンド鋏で切って、もう片ほうが落ちた枝や葉っぱを拾ってビニール袋に入れる。
マジックハンド係は肩と腕が疲れる。 落穂拾い係は腰が疲れる。
で、交代しながら剪定を進めるわけだ。
これを約3時間近くやったので、その後はもう優雅な読書どころじゃなくなちった。
二日目はカミさんが近所のお友達と一緒に朝から出かけた。
お台場でシンコデマヨをやるからと。 なにかというとメキシコの独立祭。
カミさんは最近スペイン語に熱中してて、その教室の友達と連れ立っていった。
楽しかったそうだよ。 ついでに隣でやってたドイツ祭りにも顔を出したら、かたや陽気なラテン系、こなた厳格なゲルマン系の人らが集まってて好対照だったのも面白かったそうだ。
それはそれとして、今日は一人でのんびり読書三昧できるなと思って、近所のスーパーで買ってきたカツサンドと赤ワインを持って、テラスに出たんだけど。
ほどなくして第三の極、もうひとりのドンが現れた。
家の中でひとりぼっちになったまりん
がうにゃんと言いながら、テラスの前の網戸をがりがり引っ掻いてきたんだよ。
これはもうほっとけないでしょう。
で、僕は網戸を開けてまりんをテラスに出してやった。 まりんはふんふんとテラスの中を見て回る。 で、ごろっと寝っ転がる。
僕が、ええと、そろそろ中に入ろうよと促してもどこ吹く風。 で、最後は抱っこして家の中に放り込んで網戸を閉める。 で、それからほどなくすると、またまりんがうにゃんと鳴いて網戸を引っ掻く。 出す。 入れる。 うにゃん。 その繰り返しだった。
でも、まあ、まりんのうにゃんもある意味では小説にフィットしてた。
なにしろ、村上春樹は文壇屈指の猫好きなんでねえ。
「騎士団長殺し」にも随所に猫が引用されてた。
正確には覚えてないけど、例えば猫のように敏捷にとか、臆病な猫のようにとか、自分の尻尾を追いかけて走る子猫のようにとかの形容詞群。
あるいは、主人公は子供の頃に「こやす」という名前の黒猫を飼っていたとか。 重要な登場人物の少女も猫を飼っているとか。
ということで、「騎士団長殺し」のことをさらっとだけ紹介しとくと。
あいかわらずやけに面白かったよ。
村上春樹作品の特性として、主人公は一風変わっているけど確かな技術が必要とされる職業で身を立てている。
例えば、会計士とか予備校の講師とか専門書の翻訳業者とか。
今回の主人公の職業は肖像画家。 美大を出て抽象画を描いていたけど、それでは食っていけない。 ので、各界の名士の肖像画を描くことを職業としている。
で、これまた村上作品の特性として、主人公は人当たりは悪くないけど、自分の生き方みたいなのにこだわりがあって、それが世間と相容れないところがある。
「騎士団長殺し」の主人公、「私」もそうで、物語は彼が妻からこう宣告されるところから始まる。
「とても悪いと思うけど、あなたと一緒に暮らすことはもうできそうにない」
あとはそうだな、これまた村上作品の常套で、音楽と酒が節々に登場する。
二つの歌劇、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」とリヒャルト・シュトラウスの「薔薇の騎士」はこの物語の主旋律といっていい。
あるいは、この二枚のアルバムが大事なシーンで登場する。 セロニアス・モンクとブルース・スプリングスティーンの代表作ね。
さらには主人公が相棒と長いドライブに出る。 クルマの中でシビアな会話をするんだけど。 ボルボに搭載された「カセットテープ」から流れるBGMは、まったく会話にそぐわない。 その相棒がこよなく愛する80年代ポップスのヒットメドレーなんだよ。
私 「この車の中は進化が止まってるみたいだ」
相棒 「おれはCDみたいのが好きじゃないんだ・・・略」
私 「しかし、この人生の中でもう一度、ABCの『ルック・オブ・ラヴ』を聴くことになるとは思わなかった」
たしかに僕も最後に聴いたのはいつだったか覚えてないけど、ずいぶん久しく聴いてないな、この曲。 ルック・オブ・ラヴ ABC
https://www.youtube.com/watch?v=cNEdxZURTaI
アルコールについては、村上春樹はビール会社の回し者じゃないかと思わせるほど、この飲料の美味そうな描写に関して職人芸を発揮する人だけど。
本作では主人公が主に口にするのはワインだった。 あとはスコッチ。
一人前の男子たるもの、ひとり喉を癒したくなったとき、あるいは友を迎えたときのために自宅にスコッチのボトル一本は常備しておかなくてはならない、というのは僕が本作から得た教訓の一つだった。
ただし、「私」は銘柄にはこだわってなくて、飲んでたのはこれらのファミリアな品だったけどね。
あとはそうだな、村上春樹は猫、音楽については文壇屈指、ビールの描写についても然り、マラソンについてもそうだけどこれは小説にはあまり登場させない。 もうひとつの得意ジャンルが映画だ。
川本三郎と交代交代で1920年代後半から80年代前半までの洋画の寸評を書いたこの本なんか、僕は師匠にしている。 寸評なので細かい説明抜き、作品のキモのところを抜き出して自分の言葉で語っている。
で、本作でも「波止場」のマーロンブランドとかいろいろ出てきたけど、中でも「私」の相手の表情を「ポイント・ブランクのリー・マーヴィンのように片方の眉をひょいとあげた」なんて描かれちゃうと、思わずにやっとしちゃいたくなったよ。
まあ、「騎士団長殺し」の紹介はこの辺にしとく。
やけに表面的なことしか書かなかったけどね。
表面的といえば、この物語には大日本帝国陸軍の南京入城のことが重要なファクターとして登場するんだけど。
これを捉えて南京虐殺事件はでっち上げだ、村上は中国に媚を売ってる、みたいな誹謗中傷がネットに出たらしい。 気持ちわるいので検索して確認はしてないけど。
そういうおバカなことはやめてもらいたいなあと切に思う。
最後にこの作家のことをちょっとだけ。 ちょっとした仮説を考えたので。
僕の周りを見回すと。これはマイミクさんを含めてなんだけど。
村上春樹という作家は50代以上にはあんまり人気がないという実感がある。
今や新作を出せばあっというまに売り切れるという売れっ子なんだけどね。
実際、クラシック、ジャズ、ボクシング、それに村上春樹をテーマにすると、コメントが激減するというのが僕のmixi経験則なんだよ。
あるいは実生活でも、僕と同世代の友人に「俺はトリモツと慶応大学と村上春樹がでえっきれいなんでえ!」と公言する奴がいる。
これは一つには食わず嫌いがあるんじゃないかと思う。
僕の感じでは、村上春樹のファン層を時期的にみると概ね3種類に分かれると思う。
第一世代はデビュー以来のファン。つまり僕だ。
僕はデビュー作の「風の歌を聴け」がたまたま書店で目について、買って読んで、なかなかいいなと思ったのがこの作家を知ったきっかけだった。
ただ、ここから何作かを出した頃のこの作家は知る人ぞ知るの存在だったと思う。
本屋大賞とかそういうのならあれだけど、群像の新人賞はとっても芥川賞には落ちた作家の小説を読む人はそれほど多くないだろうからね。
本人がマスコミに露出するのを嫌って、テレビはもちろん雑誌のインタビューなんかにもほとんど出なかったことも影響があったと思う。
で、この時代のこの作家の細々としたファンの中核は、当時の僕みたいな20代の若者でかつ男だったんじゃないかと思う。
第二世代のファンが「ノルウェイの森」のヒットでファンになった層じゃないかな。
あれは売れた。 僕にしたら、前作の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の方が断然よかったし、ほぼ同時に出た「ダンス・ダンス・ダンス」も大分上だと思ったんだけど。 とにかく、純文学界では珍しいほどの大ベストセラーになった。
あれが出たのが1987年。 その当時の若者、それもどっちかというと女性がファンになったんじゃないかと推察する。
ただ、こういっちゃなんだけど、ベストセラーの読者にありがちなミーハーチックな感じはあったんじゃなかろうか。その分、引いちゃった層もいたんじゃないかと推察する。
で、第三世代が今のハルキストと呼ばれる人たちだ。
この層の出現はいつからだろう、「海辺のカフカ」か「ねじまき鳥クロニカル」のどっちかが出た辺り。 村上春樹がノーベル賞候補と騒がれだした頃からだと思う。
で、この人らは男女は問わないけど、やはり若者が中心の印象はある。
ここまでくると、その前、ノルウェイ前後までに村上作品に触ってなかった僕の同世代、つまり今の50歳代は完全に出遅れてしまったのではないか。
で、世間じゃムラカミハルキが騒がれてるけど今さら触りたくない的な心境になっているのではなかろうか。
なんかね、世間的なムラカミハルキのイメージって、クールといえば聞こえがいいけど、裏腹にはスカした奴みたいな感じもあるような気がするし。
実際はたしかに一昔前の私小説みたいなウェット感はぜんぜんないけど、いろいろ考えさせられることをさらっと描く語り口が絶妙なんだけどねえ。
というのが僕の仮説です。
いや、すいません、最大公約数的な動きを勝手に推理してみただけなので、俺は、私はそんなんじない!という人は多々いるかと思います。
ただ、あれだけ大ベストセラーを連発してるのに実生活でもmixiでもあの人のファンがあまり見当たらないというのはなにか理由があるんじゃないかと思って、仮説を組み立ててみました。
もちろん、僕の周りにも50代の村上春樹ファンはいる。
相棒のろまさんはあの作家の愛読者だ。
ヲタ仲間の総帥と巨乳派も新刊が出るたびに読んでいる。 特に巨乳派は「困難な状況に陥ったときは『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を紐解く」という程のファンだ。
で、このヨッタリの共通項を考えてみた。
猫、クラシック音楽、ジャズ、映画。。。村上春樹的な僕の趣味をあげてみる。
二人か三人までは共通するけど、最低一人はそういう趣味は持ってない。
アニメはまあ、村上春樹的じゃないし、第一ろまさんはさほど趣味にしていない。
そのろまさんは僕が知る限りの知人の中の最大の読書家で、総帥、巨乳派、僕の三人もかなり読んでいる方だけど。 小説を読むのが好きというのは村上春樹ファンの必要条件ではあっても、十分条件であるはずがない。
しかし、その小説でふと四人の共通項を思い出した。
皆、矢作俊彦のファンだということだ。
この日本を代表するハードボイルド作家(と僕は思っている)と村上春樹は、まったく違う地平線に立って創作活動をしている。
しかし、4人が4人ともというのは偶然を超えているのではないか。
ということで、村上春樹作品と矢作俊彦作品はどこか同じポイントで読者の琴線に触れるところがある、というのを第二の仮説として提示したい
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えと、上の意味不明の記号はですね。
長いことパソコンに向かってたら、まりんが怒って乗っかってきてキーボードの上を歩いた跡の印。
明日からこの姫ともしばしの別れだ。
なので、やや中途半端だけど、この日記はここでおしまいにします。
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