mixiユーザー(id:1742219)

2020年02月24日20:20

29 view

ギンレイの2本(20200224)

終わってしまった前回のギンレイの2本。

まず「存在のない子供たち」。
ザインはヨルダンのスラムに住む少年だが、両親が出生の届け出を含め何もしていなかったため、生年月日すらあやふやだった。
そのザインが人を刺して拘束されてしまう。
ザインは拘留場からTV局に電話をして、自分が両親から虐待されていたことを訴え、両親を告訴する。

ザインの推定年齢は12歳前後、逮捕される前は学校にも行かず近所の雑貨屋で働いて家計を支えていた。
両親のことは嫌っていたが、きょうだいたちを愛し、特にすぐ下の妹のサハルを可愛がっていた。
だが両親は10歳そこそこのサハルを、雑貨屋を経営している男の嫁にしてしまう。
絶望したザインは家出をする。
家出先で出会ったのは、遊園地で働くラヒルと出会う。
ラヒルはエチオピアからの移民だが、子供を妊娠したことで家政婦の家を出ることになり、乳飲み子と一緒に偽造の移民票を使って生活していた。
ラヒルはザインを家に連れて帰り、息子のヨナスの面倒を見させた。
かねてから妹や弟の面倒を見ていたザインは、一生懸命ヨナスの面倒を見る。
しかしラヒルは移民票の偽造がバレて拘束されてしまう。
ラヒルが戻ってこない中、ザインはヨナスの面倒を見ながら必死に生活する。

ザイン役の子役は、本当にシリア難民らしい。
まだ少年なのに、常に世の中に絶望した表情をしているのは、演技ではないのかもしれない。
そして子供ながら、知恵を絞って一生懸命ヨナスの面倒を見る姿は、見ていて心が締め付けられるようだ。
まだミルクを飲んでいるヨナスについては、もちろん演技ではないだろう。
そうなるとこの映画の演技が児童虐待になるんじゃないかと言う気もするが、現実のレバノンではこれが日常なのだとも思う。

昨今日本では、レバノンと言えばゴーン被告の逃亡先と言うイメージしかないが、決して裕福な国ではなく、裁判中の両親の叫びも含めて、いろいろと考えさせられる映画であった。

続いて「幸福なラザロ」。
イタリアの田舎の小さな村は、数年前の大洪水の影響で社会から隔絶されていた。
TVやラジオはおろか新聞などもなく、約50人の住民は領主のデ・ルーナ侯爵夫人に小作農として、賃金無しで中世の農民のように働かされていた。
その村で生活していた青年がラザロだ。
ラザロは性格も温厚で誰よりも働き者だった。
あまりにも真面目過ぎて、村人から少々馬鹿にされるほどだった。

ある日侯爵夫人が息子のタンクレディ、そして村を監督するニコラとその娘テレーザたちを連れて村を訪れた。
タンクレディは村を散策するが、村人は領主の息子に近寄ろうとしない。
唯一仲良くなったラザロを、タンクレディは兄弟分扱いで信頼した。
村に滞在していたタンクレディは母親に反発して、狂言誘拐を計画し身代金を要求した。
タンクレディは村のはずれに隠れ、ラザロが食料などを運ぶのだが、侯爵夫人はタンクレディの狂言誘拐を見抜き相手にしない。
そのうちラザロが高熱を出して、食料を運ぶことができなくなってしまう。
熱が引いた直後にラザロは急いでタンクレディの隠れている場所にに駆けつけようとするが、途中でがけから落ちてしまった。
その後、タンクレディを心配した婚約者のテレーザが警察に通報してしまい、侯爵夫人が村人から搾取をしていたことも明らかになってしまう。
村人は保護され、村は廃村になってしまった。

がけ下に落ちたラザロは、しばらくしてオオカミに起こされ目を覚ます。
村に戻るとかなりの時間が経過しており、かつての侯爵夫人の館に侵入している者がいた。

よくわからないのだが、おそらく聖書を題材にした作品なのだろう。
映画を観た後にネットで調べたら、ラザロとは『ヨハネ福音書』に登場する「蘇りのラザロ」をモチーフにしているらしい。
ただ、キリスト教についての知識がない私には、ほとんど理解できなかった。
私だけではなく、おそらくほとんどの日本人が意味を理解できないのではないだろうか。
キリスト教に詳しければ興味深い作品なのかもしれないが、私にはまったく判断ができない作品だった。


38.存在のない子供たち
39.幸福なラザロ
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する