以前、部屋が狭かったので、描いた絵とか個展に出した作品などもすべて実家に送って置いていたのだが、その数が膨大になって一部屋ぶん一杯になってきたので、気を使って、邪魔なら全部捨ててもいいよと言ったら、次に実家に帰ったときに本当に綺麗さっぱり無くなっていた。親にとってはゴミだったのだろう。それらの絵を描くのにかかった時間がどれだけになるかは分からないが、とりあえず自分が生きた証のような膨大な時間の痕跡がそのときに全部消えた。もう20年以上前の話だが。
ところで、処分された絵の中で何故か一点だけが残されていたのだが、それがキャンバスに油絵具で描いた一番どうでもいい絵だった。実家に送る前に捨てるはずだったものなのだが、間違えて送ってしまったのだ。何故それだけ処分しないで残したのかはだいたい分かる。油絵具で風景が描いてあるから絵としてなんとなく分かりやすかったのだ。親から見ればこれだけが”絵”だったのだろう。
ちなみにその絵。使わなくなった古い油絵具をそのまま捨てるのはなんだか気が引けるので、パレットに全部しぼり出してキャンバスに適当に塗っていったらインチキな風景画になったというシロモノで、古道具屋の隅に眠ってるような埃まみれの古いインチキ油絵よりもさらに胡散臭い絵なのだ。これだけをわざわざ残すところに親のセンスがよく現れているが、ひょっとして皮肉でこれだけ残しておいたのかもしれない。まあ、どちらでもいいのだが。
とりあえず自分が全精力をつぎ込んで本気で描いた絵が綺麗さっぱり処分されてしまったので、僕の中ではそれで一区切りというか、そこで過去を切り離したような気分になった。要するに次に描くときには、それらとの繋がりなど一切無く、全く新しく始めるということだ。それまでメインに使っていたアクリルのフタロシアニンブルーという色を使わなくなったのはそのときから。
処分された絵の中でも、記憶に残っている絵がいくつかある。それらは実物が残って無いだけでなく写真でも残って無いのだが、僕の中では鮮明に残っていて、結構はっきりと思い出せる。記憶の中だけにしか残ってないから余計にいい絵だったように思えるので都合がいい。思い出補正みたいなものだ。とにかく、それらはなかなかいい絵だった。当時パソコンがあったらホームページやTwitterにでもアップしてたかもしれない。それらの絵を知っているのは自分だけというのが情けないが、自分だけが知ってりゃいいではないかと最近思えるようになった。
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