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2020年02月23日23:39

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青春の終焉――末松太平と太宰治の青森駅

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末松太平の『私の昭和史』と太宰治の『善蔵を思う』には、それぞれ印象的な青森駅前の描写がある。

「弘前から汽車で青森にでる。東北線夜の七時の急行に乗ろうとするのである。
 手錠をかけられ腰縄をうたれている。が、腰縄のはしは憲兵なり警査なりに、いかめしく握られているわけではない。腰にぐるぐる巻きつけてある。
 手錠も汽車に乗ると外してくれた。それを袴の前のところ、帯のあいだに押し込んで置いた。
 で、こんな内部の細工も、上からトンビで覆っているから、そと見にはわからない。
 弘前から青森に向かう汽車のなかで、東奥日報の若い記者と視線が合った。同じ車に偶然乗り合わしたのだった。
 青森では乗り継ぎに間があった。そのあいだ駅長室にはいっていた。
 駅長室の窓ガラスはストーブのぬくもりで曇っていたが、それをとおして駅前通りが、ぼんやりと眺められた。
 雪切りは終わっていて、舗道が黒い膚を露わにしていた。折から綿をちぎったような春の雪が、ゆるやかに舞っていて、落ちなずむように落ちては、黒い舗道に消えていた。
 こんな姿で青森との別れをするのかと、ふと思った。青森での青春十年の生活が、思い出すともなく思い出された」(末松太平『私の昭和史』)

「私は、もう十年も故郷を見ない。八年まえの冬、考えると、あの頃も苦しかったが、私は青森の検事局から呼ばれて、一人こっそり上野から、青森行の急行列車に乗り込んだことがある。浅虫温泉の近くで夜が明け、雪がちらちら降っていて、浅虫の濃灰色の海は重く蜒り、浪がガラスの破片のように三角の形で固く飛び散り、墨汁を流した程に真黒い雲が海を圧しつぶすように低く垂れこめて、嗟、もう二度と来るところで無い! とその時、覚悟を極めたのだ。青森へ着いて、すぐに検事局へ行き、さまざま調べられて、帰宅の許可を得たのは夜半であった。裁判所の裏口から、一歩そとへ出ると、たちまち吹雪が百本の矢の如く両頬に飛来し、ぱっとマントの裾がめくれあがって私の全身は揉み苦茶にされ、かんかんに凍った無人の道路の上に、私は、自分の故郷にいま在りながらも孤独の旅芸人のような、マッチ売りの娘のような心細さで立ち竦み、これが故郷か、これが、あの故郷か、と煮えくり返る自問自答を試みたのである。深夜、人っ子ひとり通らぬ街路を、吹雪だけが轟々の音を立て白く渦巻き荒れ狂い、私は肩をすぼめ、からだを斜めにして停車場へ急いだ。青森駅前の屋台店で、支那そば一ぱい食べたきりで、そのまま私は上野行の汽車に乗り、ふるさとの誰とも逢わず、まっすぐに東京へ帰ってしまったのだ。十年間、ちらと、たった一度だけ見たふるさとは、私にこんなに、つらかった」(太宰治『善蔵を思う』)

末松太平は二・二六事件に連座して東京へと連行される途中の描写で、昭和11年3月26日の青森駅前の風景になる。一方、太宰の『善蔵を思う』は、共産党の非合法活動に関わったことにより東京から青森へと呼び出された思い出を記したもので、昭和7年12月の青森駅前の風景になる。太宰はこれを期に左翼活動から離脱するのだが、末松太平も、青春を賭けた「革新」の終わりを青森駅前の風景に象徴させているのが興味深い。雪の舞う青森駅前の風景は、青春のシュトルム・ウント・ドランクの終焉の舞台装置として、なぜこうもよく似合うのだろうか。
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