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2020年02月19日00:18

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二・二六事件と太宰治

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今年ももうすぐ2月26日がやってくる。僕は二・二六事件には詳しくないのだけど、三島由紀夫が強く惹かれていた事件でもあり、少しずつ文献を読み進めている。当事者の書いたものとして第一級の史料と言われる末松太平の『私の昭和史』の中で印象的だった文章。

「省みすれば、戦前に於ては吾国には所謂愛国者が多過ぎました。然もそれが派閥をたてて本家争いをしています。仲間以外は全部不忠者、非国民にしていました(その大多数の国民が国を守って来ていることを忘れてはならぬと思います)。一視同仁を説き乍ら、自らは別の世界に住んでいるかの様でありました。もっとお互に小異を捨て、虚心に大同につけば日本の進路も変っていたのではありますまいか。戦後も当時と大差ない様であります。之等の人々がいて、どうして戦争に突入し、敗戦し、今日の混乱を来たしたのかと思われる様な回顧録、手記、回顧談が横行しています。こんなことを繰り返していたのでは忠義の専売者と愛国の独占者によって、敗戦した祖国はどんなことになってゆくでしょうか。唯悪循環と悪因縁の連続ではありますまいか」(上巻P259)

これは戦後二・二六事件を、真崎将軍が立身出世のために純真な青年将校たちを利用した「陰謀」であったと断じた辻政信の『亜細亜の共感』に対して、三角友幾が送った抗議文を末松太平が引用紹介したものである。三角は、青年将校は自らの意志で起ったのであり、これを単に軍内部の政争に利用されただけのように決めつけるのは、刑死した青年将校の魂を侮辱するものである、と辻に抗議しているのだが、辻がそのように主張するのは当時の自分の立場を正当化するための下心があったためのようである。その自分の立場を辻は「愛国心」で正当化しようとするのだが、それを三角は「省みすれば、戦前に於ては吾国には所謂愛国者が多過ぎました」「忠義の専売者と愛国の独占者」といって批判しているのである。この自称愛国者批判は、現代の日本にもよく当て嵌まるように思う。

また、末松太平の『私の昭和史』には次のような文章もある。

「農民臭ははじめから身につけた、青森連隊青年将校の体臭だった。私が士官候補生のころ、当時少尉だった大岸頼好が綴った『兵農分離亡国論』には、立場はもちろんちがうけれど、小林多喜二の『不在地主』と共通したものがあった。
 大岸少尉に共感して革新に志した私が、素朴に頭に描いたことは、軍隊の蹶起は農村に蜂起する蓆旗と呼応すべきであるということだった。それが幕僚の指導する十月事件クーデターの性格に、膚があわない根拠だった。それは本能でさえあった。脂粉の香と下肥の臭いのちがいを、自然に嗅ぎとったのである」(下巻P11)

末松太平は、昭和維新の本質を「軍隊の蹶起は農村に蜂起する蓆旗と呼応すべきである」、つまり一種の農民一揆と看做していたようである。これは実際に二・二六で蹶起した青年将校やその思想的指導者であった北一輝の維新観とは異なるかもしれないが、末松太平の革新のイメージをよく伝えていると思う。そして、末松はいかにして津軽の貧農が明治以来政策的に作り出されてきたかを記していくのだが、このあたりは太宰の『津軽』で列挙される津軽地方を襲った飢饉の記録の記述と重なり合うものがある。

末松太平の維新を志した原点は「農民である兵は、なぜこう貧乏なのだろうか」という疑問であり、そこから青森連隊青年将校の革新行動の旗幟を明らかにしようとしたのである。太宰治は二・二六事件自体は「狂人の発作」と一刀両断しまったく評価していなかったようだが、津軽の大地主の子弟であることを原罪意識として抱えつつ、太宰なりの「民衆との和解」を求め続けたのが、処女作『思い出』以来一貫した太宰文学の通奏低音になっている。そして、その最高の結実が『津軽』になるのだが、末松太平と太宰がどこかで言葉を交わす機会があったら、もしかしたら二人は相通じ合うものを感じたかもしれない。

戦後の津軽の風景を見事に切り取った掌編『親という二字』で、太宰は次のように憤慨しているが、これは三角友幾の辻政信への抗議文と同じ響きを湛えている。

「クソ真面目な色男気取りの議論が国をほろぼしたんです。気の弱いはにかみ屋ばかりだったら、こんな事にまでなりやしなかったんだ」(太宰治『親という二字』)

二・二六事件の生起した背景を探る際にも、太宰の残した作品群は貴重な視点を与えてくれるような気がする。
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