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2019年06月25日00:38

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ドン・キホーテと三島由紀夫――滑稽と悲惨、及びその偉大さ

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「良いことだから付け足すとか、悪いことだから取り除くというようなことがあってはならぬ。というのも、追従ゆえに誇張したり、愚にもつかぬ気づかいから省略したりすることなく、真実をあるがままの姿で伝えるのが、一般に忠臣の主君に対する務めというものだからじゃ。サンチョよ、お前にぜひとも教えておきたいが、もし真実がへつらいの衣をまとうことなく、赤裸々に王侯の耳に入るとするなら、この世はもっと変ったものになっており、昔の時代、過去の世紀はわれわれの時代よりはるかに鉄の時代と見なされることになろう」(セルバンテス『ドン・キホーテ』後編第2章)

憂い顔の騎士、いいこと言ってるなあ。「忖度」なんて言葉が流行り、選挙に都合の悪い答申が受け取り拒否される現代の日本でこそ、このラ・マンチャの男の言葉は傾聴に値するものとして清々しく響く。

それにしても、『ドン・キホーテ』を読んでいると、どうしても三島由紀夫の姿がダブってしまう。

セルバンテスも三島も、かつて祖国の栄光を支えた「騎士道/武士道」が、祖国の決定的な敗戦(無敵艦隊の壊滅/大東亜戦の敗北)によって、時代遅れのものとなり、嘲笑の対象でしかなくなった「戦後」という時代にあって、かたくなに「騎士道/武士道」的理念を追求し、端からどれほど嗤われようと、本人はあくまで尚武の精神による世直しに邁進する狂人の滑稽と悲惨を世に示してみせた――という意味で、よく似ている。もっとも、狂人を、セルバンテスがあくまで作中人物として描いたのに対して、三島はみずから実演したという違いはあるけど。

三島由紀夫は、自分の政治行動について、いいだももとの対談で次のように語っている。

「ほんとうに滑稽だということは、客観的に滑稽ということなんだ。われわれが意図することは、客観的に滑稽であること。そして、客観的に滑稽であってもいいと思うんだ。しかし主観的に滑稽だと思ったら、人間負けだよ。そういうことは絶対やっちゃいかんと思う」(「政治行為の象徴性について」)

ドン・キホーテも三島も、端からどれだけ嗤われようと、主観的には自分の行為を微塵も滑稽だと思っていない。しかも、その主観的真剣さと客観的滑稽さの落差が生み出す、いわば「反時代的ユーモア」によって、ドン・キホーテも三島も、笑いを提供しながらも、読者の胸のうちに何か深い倫理的感動をもたらすのである。

『ドン・キホーテ』が単なる狂人の失敗談を綴った滑稽譚であったなら、おそらく世界文学――ことにも近代文学――の古典となることはなかっただろう。『ドン・キホーテ』がクラシックとなったのは、「戦後」という時代に、にもかかわらずウンツァイトゲメースな精神のみが開顕しえる時代を超える「気高さ」の価値を描いたからである。『ドン・キホーテ』を読み、また三島由紀夫の死に触れた時によぎる、滑稽なうちに際立つ厳粛な感動の正体は、ここにある。

『ドン・キホーテ』は近代文学の始祖として名高い。その「主観的真剣さと客観的滑稽さ」ゆえに体現された反時代的ユーモアにおいて、三島は近代文学の起源を生きかつ死んだともいえるだろうか。
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