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2019年03月25日17:00

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「昭和四十五年十一月二十五日」と「1970年11月25日」

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平成も残すところあとひと月あまりとなった。

元号ごとに一つの時代と捉え「明治時代」「大正時代」「昭和時代」と振り返るのは、欧米にはない日本だけの歴史に対する視点なので、元号は非効率的で不要という人もいるけど、僕は面白い制度だと思う。大袈裟にいえば、日本人固有の時間感覚、日本人固有の歴史意識が元号によって成立していると言えるのではないだろうか。

たとえば、「1930年代」というのと「昭和十年代」というのとでは、ほぼ同時代でありながら、なんとなく心に浮かんでくる風景が異なってくる。太宰治の描いた作品世界は、あくまで「1930年代/1940年代」ではなく「昭和十年代/二十年代」の日本を前提にした方がしっくりくる。同じことは、漱石や芥川や三島なんかにも言える。元号で時代を捉える感覚、元号に過剰な意味性を持たせる精神がなければ、漱石の『こころ』も書かれなかっただろうし、荷風の「われは明治の兒ならずや」も書かれなかっただろう。

では、「平成」が果たしてかつての「明治」「大正」「昭和」と同じだけの意味性を日本人の精神によって持たれているかというと、それは甚だ心もとないように思う。「昭和十年代」「昭和二十年代」とはいうけど、誰も「平成十年代」「平成二十年代」とは言わないし、「2000年代」と「平成十年代」とでそれほど異なる風景が心に浮かんでくることもないのではないだろうか。もっとも、それはまだ平成が「歴史化」していないからであって、50年後には「平成二十年代」は震災と原発事故によって象徴される時代として振り返られるようになっているかもしれない。

村上春樹の『羊をめぐる冒険』が三島由紀夫の死を意識して書かれたことは有名だが、春樹はこの小説で三島の死んだ日を「昭和四十五年十一月二十五日」とは書かず「1970年11月25日」と表記している。元号ではなく西暦の中に三島の死を位置付けることで、村上春樹は日本固有の歴史意識への過剰な捉われを無化しようとしたのかもしれない。そしていまや、村上春樹は国内敵なしの日本を代表する作家になっている。もし「平成文学」というものがありえるとしたら、村上春樹こそその代表的作家のはずだが、「平成文学」という概念はまったく村上春樹には似合わない。村上春樹だけでなく、現代の日本の作家たちを「平成文学」という言葉で括ること自体、何か実態と離れた空々しさを感じさせる。社会学者の古市憲寿が芥川賞狙いで『平成くん、さようなら』を書いたが、あれは漱石の『こころ』と異なり、平成という時代への「思い入れ」というより「思い入れのなさ」を描いたものと言えるだろう。古市憲寿が現代日本人の気分の代弁者としてどの程度相応しいかは分からないが、彼の小説のタイトル自体が日本人の元号への思い入れへの別れの挨拶のようにも読める。

あるいは今後日本文学は、大きく「元号文学」と「西暦文学」の二つに分かれることになるのかもしれない。――もっとも、日本における文学活動が大きく国内向けのものと国際的性格のものの二つに分かれるというのは、遡れば『古事記』と『日本書紀』の頃からそうだったと言うこともできのるだろうけど。

そもそも、古代中国に由来する元号という制度自体、強く対外国を意識した国民統合の装置のはずである。

元号というのは、改元によって世を改め、ここからまた新しく理想の国家を建設していこうという、一代ごとの建国宣言のようなものである。ことに維新によって「一世一元の制」を制定した明治改元は、一種の革命であり、新国家建設宣言の意味合いが強かった。

司馬遼太郎が深い愛着をもって描いたいわゆる「明治人」たちが、あれほど爽やかで朗らかなのも、彼らが新国家建設の大業に参画しているという意識を強く持っていたからだろう。それは「維新の志士の如き烈しい精神で文學をやつて見たい」といった漱石も同じである。

明治改元によって「建国」された新国家・大日本帝国の理想郷実現事業は、その後、大正、昭和と受け継がれ、昭和二十年に決定的な敗北を迎える。ここで近代日本は一区切りつけられ、極論すれば「国家の滅亡」を経験したのであり、その後の日本は語の完全な意味での「独立国」ではなくなったと言っていいだろう。昭和二十年以降の昭和は、大日本帝国滅亡の後始末のためにあったと言っては言い過ぎだろうか。

そして、明治・大正・昭和と三代続いた大日本帝国の後始末に、昭和天皇崩御とともに一応の一区切りがつけられたのが、平成改元だった。今思い出しても、昭和から平成への改元は、何かの始まりというよりは、何か大きなものの終焉という感慨が国民の間で広く抱かれていたように思う。少なくとも、新国家建設の前途洋々とした高揚はまったくなかった。

一方で、冷戦の終焉とちょうど重なっていたので、元号ではなく西暦で捉える歴史の方では、ある種の解放感が人々に共有されていたような記憶がある。ベルリンの壁を破壊するドイツ市民たちの姿はその象徴だろう。

平成という時代への人々の思い入れの薄さ、それは改元当初からのもので、「一世一元の制」を採用した大日本帝国の昭和における滅亡とともに、改元はすでに事務的なルーティンのようなものでしかなくなっていたのかもしれない。

元号の意味そのものが昭和以前とは決定的に変わってしまった時代――それが平成という時代だったといえると思うけど、元号に人びとが過剰な思い入れをしなくなったというのは、つまりナショナリズムに過剰に捉われなくなっているということでもあって、よかれあしかれ社会の成熟を示すものと取ることもできるだろう。

たとえば江戸期の改元などは、庶民はたいして興味を持たず、支配階級の間でのみ意味を持つ伝統に過ぎず、明治以降のように国家的な大騒ぎとしては行なわれていなかったはずである。たとえば「正徳改元」に一体当時どれだけの日本人が興味を持っていただろう。もし平成以降の日本人が元号に過剰な思い入れを持たなくなっているとすれば、(生前譲位の復活も含めて)それはある意味江戸期に回帰した姿と言えるのかもしれない。

そして、今後ふたたび日本人が元号に強い思いれを持つ時代が来るとすれば、それは何か革命に類する大きな社会変動が起きたときだけだと思う。その種の変化が、志士的精神の持ち主以外の日本人にとって、歓迎すべきものであるかどうかは、僕にはよく分からないけど。
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