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2020年11月05日11:54

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口語訳『荀子』巻第三 非相篇第五

非相篇第五
 人相を見るということは、古の聖人の為さない事であり、学問に携わる者は口にしない事であった。昔、趙襄子を相したと言われる姑布子卿という者がいたが、今の世は梁に唐舉と言う者が居り、人の形状や顔色を見てその人の吉凶や禍福を予言し、世の人々はこれを褒めたたえた。しかしそれは古の聖人の為さない事であり、学問に携わる者は口にしない事である。だから人の形状を見て吉凶禍福を占うのは、心のありようを論ずるのには及ばないし、心を論ずるのは行為を判断するのには及ばない。形状は心に及ばないし、心は行為に及ばない。行為が正しくて心がまっすぐであれば、形の見立てが悪くとも、心やその行いは善であり、君子であることに何の問題も無い。形の見立てが善くても、心や行為が悪ければ、小人とみなして差し支えない。君子であることを吉と言い、小人であることを凶と言うのである。体の長短・小大や容貌の善悪は吉凶とは関係がない。だから古の聖人の為さない事であり、学問に携わる者の口にしない事であったのである。思うに帝堯は長身で帝舜は短身、文王は長身で周公は短身、仲尼は長身で子弓(楊注:子弓は、蓋し仲弓なり)は短身であった。昔、衛の霊公の臣下に公孫呂という者がおり、身長は七尺、顔の長さが三尺広さが三寸、それに鼻・目・耳がついている不細工な顔であるが、その賢者としての名声は天下に轟いている。楚の孫叔敖は期思という田舎の人で、突き出た禿げ頭で、左脚が右脚より長いという奇形であったが、坐したまま智謀により楚を諸侯の覇者にした。葉公子高は身長が低く痩せており、歩くのにも衣服の重さに耐えらそうもなかったが、白公の乱が起こり、宰相の子西や司馬の子期らが死亡すると、葉公子高は楚に入り、そこから白公を誅し楚国を定めた。それは手を返すように簡単に成し遂げ、その仁義の徳や功名は後世にまで称えられている。だから大事なことは、背の高さや体の大きさや体重の軽い重い等を問題にするのでなく、その心を知ることである。体の長短・小大や容貌の善悪をどうして論ずる必要があろうか。また徐の偃王の風貌は俯くことができず遠くの馬は見ることができるが近くの馬は見ることができなかった。孔子の風貌は鬼の面をかぶっているようであった。周公の風貌は立ち枯れした木のような背むしであった。皋陶の風貌は皮を削った瓜のようであった。閎夭の風貌は顔中鬚だらけであった。傅說の風貌は魚の背びれのようであった。伊尹の風貌は髭も眉毛も無かった。禹はびっこで、湯は半身不随で、堯・舜は三重瞳であった。学問に従う者はその人を評価するのに、その心を論じて学問の如何を比べるのか、それとも体の長短や容貌の美惡を弁別して、人を侮りあざけりあおうとするのであろうか。昔、桀王や紂王は背が高く美しく天下の傑物で、筋力は強く百人にも匹敵するほどであった。それなのに身は死して国は亡び、天下の大いに辱めるところとなり、後世惡と言えば必ず引き合いに出される。これは容貌による災難ではない。見分が狭く論議が低かったからである。今の世、無頼の徒や村の才ばしった軽薄な若者たちが、綺麗で妖艶に、変わった服で婦女子のように飾り立て、心意気や態度まで婦女子のまねをする。そして婦人たちはそんな彼らを夫にしたいと望み、娘たちは恋人にしたいと望み、親や家を棄ててそんな彼らのもとへ走ろうとする者が続出するありさまである。しかしそんな男は普通の君主でも臣下にするのを恥ずかしいと思うし、普通の父親でも我が子とするのを恥ずかしいと思うし、普通の兄でも自分の弟とするのを恥ずかしいと思うし、普通の人でもそんな人間を友とするのを恥ずかしいと思う。そして罪を犯してにわかに役人に捕らえられ、市場で処刑されることになって、初めて天に向かって泣き叫び、処刑される身を苦しみ傷み、自分の過ちを後悔する。これは容貌に由る災難ではない。見分が狭く論議が低かったからである。それならば学問に従う者は、容貌と志とどちらを取るか。
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