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2020年09月24日12:39

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口語訳『荀子』巻第二 榮辱篇第四

                   榮辱篇第四
傲慢は人にとって禍を招くものであるが、恭倹は五つの武器をも斥ける。戈矛には鋭いほこさきがあるが、恭倹の鋭さには及ばない。だから人に善言を与えることは、衣服で身を覆うより暖かく、人を傷つける言葉は、戈矛よりも深く傷つける。だから広い大地を安心して踏みしめることが出来ないのは、大地が不安定なのではない。大地に足を踏み入れても危なくて立てる場所もないのは、すべて自分の言葉に原因があるのである。大きな道は混雑しているし、狭い道には危険がある。愼まずにいようとしても愼まざるを得ない。
気ままに振る舞って身を滅ぼすのは怒りが原因である。明察なのに身を傷つけ害されるのは人を怨む心が原因である。博識なのに窮地に陥るのは人を謗るからである。清潔であろうとしながらいよいよ汚れていくのは、口先がもたらす禍によるものだ。牛や豚の美味しいものを食べているのに瘠せていくのは、道に外れた交際によるものだ。雄弁なのに理解されないのは人と争うからである。人が曲がったことをしていても自分はまっすぐな道を進む、それなのに人に知られないのは、人に勝とうとする心が原因である。清廉なのに人から尊敬されないのは人を傷つけるからである。勇敢なのに人から畏敬されないのは利益を貪るからである。誠心でありながら人から尊敬されないのは勝手な行いを為すからである。これらのことは皆小人が務めて行うことで、君子のしないことである。
闘いというものは自分の身を忘れるものであり、自分の親を忘れるものであり、自分の君主を忘れるものである。一時の怒りにかられて生涯の身体を損なうにもかかわらず闘うのは、自分の身を忘れたのである。家族の者はたちどころに誅殺され、刑戮は親戚にまで及ぶにもかかわらず闘うのは、自分の親族を忘れたのである。主君の憎むことであり、刑法が大いに禁じているにもかかわらず闘うのは、自分の主君を忘れたのである。怒りに心を乱してわが身を忘れ、内は親族を忘れ、最も大切にしなければならない自分の君主までも忘れる者は、刑法も見逃さないし、聖王でも養い育てようとはしない。子豚が虎に近づかず、子犬が遠くまで遊びに出かけないのは、自分の親を忘れないからである。怒りに心を乱してわが身を忘れ、内は親族を忘れ、最も大切にしなければならない自分の君主までも忘れるようでは、人でありながら犬や豚にも及ばないものである。およそ闘う者は、必ず自分は正しく相手は間違っていると考える。自分が本当に正しく、相手が誠に間違っているなら、それは自分が君子で相手が小人ということになる。君子でありながら小人と互いに傷つけ損ないあい、怒りに心を乱してわが身を忘れ、内は親族を忘れ、最も大切にしなければならない自分の君主までも忘れるというのは、何と大きな間違いではなかろうか。このような人は、狐父で造られた優れた矛で牛の糞を突き刺すのと同じである。それでも智者だと思っているのだろうか。これ以上愚かなことはない。それでも利益があると思っているのだろうか。これ以上の損害はない。それでも栄誉だと思っているのだろうか。これ以上の恥辱はない。これでも安全だと思っているのだろうか。これ以上の危険はない。人が闘うのは何故だろうか。私はこれを心や体の病によるものであると思いたいが、それはできない。聖王は普通の人間として誅殺するのである。私はこれを鳥や鼠や禽獣のことだと思いたいが、それはできない。外形はやはり人間であり、好悪の感情も普通の人と多く同じなのである。人が闘うのはどうしてだろうか。私は甚だこれを憎む。
犬や豚の勇気というものがあり、商人や盗賊の勇気というものがあり、小人の勇気というものがあり、士君子の勇気というものがある。飲食を争って廉恥の心無く、善悪をわきまえず、死傷を避けず、相手の多さや強さを畏れず、物欲しげに唯だ飲食のみを求めるのは、これは犬や豚の勇気である。何をするにも利益を優先させて財貨を争い、人に譲ることなくためらわず行動し、強欲で人に逆らい、物欲しげに唯だ利益だけを求めるのは、商人や盗賊の勇気である。死を軽んじて粗暴なのは、小人の勇気である。正義を行うに権力に屈せず、損得を考えず、国の全てを与えられても見向きもせず、死を重んじて正義を堅持し屈しないのは、これは士君子の勇気である。
川魚のはややみごいは水面に浮かび上がる魚である。浮上しすぎて砂地に出てしまえば、水に戻りたいと思っても戻れない。それと同じで人も災難に遭ってから謹もうと思っても役には立たない。自分をよく知っている者は人を怨まない。運命を自覚している者は天を怨まない。人を怨む者は窮迫し、天を怨む者は見識がない。自分の責任で失敗しながら、それを人のせいにしようとするのは、何と的を外れた事ではないだろうか。
栄誉と恥辱の基本的な違い、安危利害の法則について。正義を先にして利益を後にする者は栄え、利益を先にして正義を後にする者は恥辱を受ける。栄える者は常に通達し、恥辱を受けるものは常に窮迫する。通達する者は常に人を制し、窮迫する者は常に人に制せられる。これが栄誉と恥辱の基本的な違いである。質朴で誠実なものは常に安全であるが、放蕩にして乱暴な者は常に危害にさらされている。安全な者は常に穏やかに楽しむが、危害にさらされている者は常に憂え苦しむ。穏やかに楽しむ者は常に長生きするが、憂え苦しむ者は常に早死にする。これが安危利害の法則である。そもそも天は衆民を生みだしたが、人にはそれぞれ地位があり守るべき道が有る。精神の修養が完全で、徳行は極めて立派で、知慮も極めて聡明であること。これが天子の天下を得るための条件である。政令は法に基づき、事の処置は時宜に適っており、裁判の判決は公平で、上は天子の命に忠実で、下は民を安らかにする。これが諸侯の国家を得るための条件である。心も行いも正しく、官職につけば立派に務め、上は上司によく従い、下はその職務をよく全うする。これが士大夫の知行地を得るための条件である。法則・度量衡・刑罰・地図戸籍を取り扱い、その意味は分からなくとも、謹んでそのものを守り、少しも手を加えず、父から子へと相伝え、王公を支えた。だからこそ夏・殷・周の三代が亡びても治めるべき法則は猶ほ存在している。これが下級役人の俸禄を得るための条件である。孝悌を尽くし慎み深く誠実であり、常に力を出し、仕事をやり遂げ、怠ることはない。これが庶民の衣食に事足り、安楽に長生きし、刑罰を被らないための条件である。邪説姦言を飾り立て、奇怪な事を行い、人を謗り嘘をつき、人を押しのけ盗みを働き、放蕩三昧で暴力的で傲りたかぶり、乱世をよいことに、まともな生き方をせず、裏切り行為を続ける。これは悪人が危害や恥辱を受け、死刑に処せられるわけである。思慮が浅く物事を選択するのもいい加減で、判断も人を侮り慎重さに欠ける。これが危険に陥る原因である。人の資質や知能は君子も小人も一緒である。栄誉を好んで恥辱を憎み、利益を好んで危害を憎むのは、君子も小人も同じである。しかしそれらを求める方法については君子と商人とは異なっている。小人は、務めて嘘をつきながら、人が自分を信じてくれることを望み、己は人を欺きながら、人が己に親しんでくれることを望み、人にあるまじき禽獣のような行動をしながら、人が己を称えてくれることを望む。物事を考えても道理を悟ることはできず、何事も安全に行うことができず、固持していても保ち続けることはできず、結局好む所の栄誉や利益は得ることができず、憎む所の危害や恥辱を被ることになる。だから君子は自ら信実であることを大切にして、人も自分を信じてくれることを望み、自ら慈しむ心を大切にして、人が己に親しむことを望み、吾身を正しく修め物事をよく処理して、人が自分を称えてくれることを望む。物事を考えれば道理を悟り、何事も安全に行い、信念は堅個に保ち続け、ついには好む所の栄誉や利益を得て、憎む所の危害や恥辱を被ることはない。だから困窮していても世間から見放されること無く、栄達すれば大いに世に現れ、死んだ後も名声はいよいよ称えられる。小人は誰もが頸を延ばし踵を挙げて君子を慕い、「君子の知能や資質はもともと普通の人より優れているのだ。」と言うが、君子の知能や資質は自分たちと変わらないということに気づいていない。つまり君子は身の処し方が適切であり、小人は身の処し方が間違っているのである。だから小人の知能をよく観察してみれば、君子ができることは、小人もできる力が十分に有ることが分かる。たとえば越の人が越の国に安住し、楚の人が楚の国に安住し、君子が中国に安住するのは、知能や資質がそうさせているのではない。身の処し方や習俗が異なっているからである。仁義を守り徳を行うことは、身を常に安らかにする方法である。しかし必ずしも安全であるとは言い切れない。汚職や利を貪ることは、常に身を危険にさらす原因である。しかし必ずしも危険であるとは言い切れない。だから君子は常に普通の道により安全を求め、小人は例外を当てにする。およそ人間と言う者は、共通したところが有る。飢えれば食べ物を欲し、寒ければ暖かいものを欲し、疲れれば息いを欲し、利益を好んで損害を憎む。これらは生まれながら持っている本性であり、後天的に習得するものではない。この点は聖王の禹と暴虐の桀王とが共通している所である。目が色の白黒、物事の美醜を区別し、耳が音色の良し悪しを聞き分け、口が酸っぱさ、辛さ、甘さ、苦さを区別し、鼻が芳香やなまぐさい臭いをかぎ分け、肉体や肌が暑さ寒さや痛み痒みを感じる。これらは又生まれながら持っている本性であり、後天的に身に附いたものではない。これらも聖王の禹も暴虐の桀王も共通している所である。だから人は誰でも聖王の堯や禹になれるし、暴虐の桀王や大泥棒の盗跖にもなれるし、大工や工人にもなれるし、農夫や商人にもなれる。その成り行きは、身の処し方や習俗の積み重ねにより決まるのだ。堯や禹のような人間になれば、常に身は安らかに繁栄するのであり、桀王や盗跖のような人間になれば、常に危険と恥辱にさらされている。堯や禹のような人間になれば、常に愉快で安らぎ、大工や工人、農夫や商人になれば、常に心を煩わし苦労が絶えない。それなのに人は務めて桀王や盗跖、大工や工人、農夫や商人になって、堯や禹のような人間になろうとしないのはどうしてだろうか。それは固陋なためである。堯や禹も生まれながらにして聖人であったのではない。生まれつき持っている本性を変えることから始めて、身を修める努力を続け、やり遂げた結果聖人と為ったのである。人の本性は本来小人であって、教える人や規範が無ければ、唯利益を追求するだけの人間になってしまう。人の本性は本来小人であるのに、そこへ加えて乱世に遭い、乱俗に染まるのは、小人に小人を重ね、乱に乱を重ねるものである。たとい君子であってもそれなりの地位があって小人を導くのでなければ、小人の心を開いて善道に導く方法はない。だいたいにおいて人間の口や腹がどうして礼儀を知ろうか、どうして辭讓の精神を知ろうか、どうして廉恥や物事の条理を知ろうか、ただがつがつと噛み、腹いっぱい食らうだけである。人にとって教える人や規範が無ければ、その人の心は口や腹と同じように欲望を貪るだけである。今、仮にある人が生まれてから一度も牛肉や豚肉、米や梁のようなご馳走を知らず、豆や豆の葉、糟や糠のような粗末な食事だけを与えられていたとしたら、これで十分なご馳走であると満足していたであろう。そこへ突然みごとな牛肉や豚肉、米や梁のご馳走を持ってやってくる者がいたとしたら、驚いてそれを眺め、「これは何と不思議なものよ。」と言うであろう。ところが、それを嗅いでみて鼻に快く、なめてみて口にうまく、食べてみて体が喜べば、今までの十分ご馳走であると思っていた食事を棄てて、これらを求めるようになるにちがいない。それと同じことで、今かりに昔の聖王の道、仁義の教えに法り、社会生活を営み、互いに助け合い、禮義で身を飾り、揺るぎなく安楽に暮らすことができたなら、桀王や盗跖の生き方とかけ離れている程度は、牛肉や豚肉、米や梁のご馳走と糟や糠の粗末な食事との違い以上に大きいものであろう。それなのに人は盗跖の生き方にならい、聖王の道を行おうとしないのはどうしてであろうか。それは固陋の為である。固陋というのは、天下の共通の患いであり、人に大いに禍と害を及ぼすものである。だから、「仁者は進んで人に正道を告げ示す。」と言われているように、人に進んで正道を告げ示し、これを習慣にして習熟させ、それを積み重ねさせたら、かの頑迷な者もたちまち心を開き、見分が狭く頑な人も突如として寛大になり、愚者もたちまち智者となるであろう。もしこのような正道を告げ示す道が行われなければ、湯王や武王のような聖王が治めていても何の利益も無いし、反対に暴虐の桀王や紂王が治めていても何の損害も無い。だが実際には、湯王や武王がいると民はその聖徳に従い天下は治まり、桀王や紂王がいると民はその暴虐非道に従い天下は乱れる。このようなことから考えてみると、人の性情というものは、聖王の民の如く善くもなるし、暴虐の王の民の如く悪くもなるものではなかろうか。
人の情としては、誰でも牛や豚の美味しい肉を食べたいと思うし、縫い取りの美しい模様がある衣装を着たいと思うし、外出する時は車や馬に乗りたいと思うし、その上余財の蓄積された富を持ちたいと願うだろう。このように歳を重ね世を重ねても足ることを知らないのが人の情である。人の性格として、鶏や犬や豚を飼い、その上牛や羊まで飼っているのに、日常の食事は酒や肉を食べようとはせず、貨幣を蓄え、品物の入った穀物庫も有るのに、日常の衣服は絹ものを身に付けようとはせず、大切なものが入った手籠があるのに、車や馬に乗ろうとしない。これは何故なのか。それらを望んでいないのではない。先々までよく考えて、そのような贅沢をしていてはいつまでも続かないことを心配するからである。そこで欲を抑えて節約し、収縮し蓄蔵していつまでも続くようにするのである。これは先々までよく考えるという点では、立派な事ではなかろうか。ところが今の虚しく生を貪っている浅はかな連中は、こんなことさえ気づかない。食事は甚だ贅沢で先のことまで考えないので、たちまちにして尽き果てて困窮することになる。これが凍えや飢えを避けられず、瓢と袋を持って乞食となり、溝や谷に死体をさらすことになる原因である。ましてこのような連中に先王の道や仁義の教え、『詩経』・『書経』・『禮経』・『樂経』の根本が分かろうはずがない。まことに先王の道は先まで深慮した天下の道であり、天下万民の為に後々のことまで考えて万世を安んじようとしたものである。遺された美風は長く、積み上げられた恩沢は厚く、その功業は偉大であるけれど、道を修めた君子で無ければそれが分かっている人はいない。だから、「つるべの縄が短ければ、深い井戸の水は汲むことができない、知慮の浅い者は聖人の言葉を理解することができない。」と言われるのである。だいたい『詩経』・『書経』・『禮経』・『樂経』の教えは、まことに凡人の理解できるものではない。だから昔からの言い伝えにも、「一度やれば再びすべきであり、一度保てばいつまでも保ち続けるように努力すべきであり、博学にして万事に通達し、深く考えて安全を期し、繰り返し調べて益々好きになるべきだ。」とある。これにより本能を調えれば利益を得ることができるし、これにより名声を得れば栄達し、これにより集団生活をすれば和合するし、独居すれば自ら満足することができる。心を楽しませてくれるものは誠にこの『詩経』・『書経』・『禮経』・『樂経』の教えであろうか。そもそも貴い天子になり天下の富を所有するというのは、人として誰もが望むものである。しかし欲を恣にさせれば、その勢いを受け入れることはとてもできないし、満足させるには天下の物資を以てしても不十分である。だから古の聖王は礼義を定めてこれを分け、貴賤の等級、長幼の差別、智者と愚者、有能と無能の区分をつけて、それぞれの人が与えられた事を為し、その宜しきを得るようにし、そのうえでそれぞれに見合った俸禄を与えた。これが集団生活をしている者を和合させる道である。だから仁徳の有る人が君主に居れば、農民は農耕に力を注ぎ、商人は財貨の増減を明らかに察し、工人は機械の製造にその匠の技を注ぎ、士大夫以上公侯に至るまで政に携わる者は、皆官職の為に厚い仁徳や知能を尽くさない者はいない。こうしたものを最高の公平と言うのである。だから俸禄として天下を与えられても多すぎるとは思わないし、門番・客の接待係・関所の番人・木を打ち鳴らして夜回りする人になったとしても決して俸禄が少ないと思わない。昔から、「不揃いでありながら等しく、曲折していて順序があり、色々異なりながら同一である。」と言われているが、これこそが人倫というものである。『詩経』商頌の長發篇に、「諸侯の送り物である大小の玉を受けて、諸侯の善き支配者と為る。」とあるのは、この事を言っているのである。

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