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2019年12月21日10:49

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『史記』李将軍列伝

李將軍廣は、隴西の成紀の人なり。其の先は李信と曰い、秦の時將為り。逐いて燕の太子丹を得たる者なり。故槐裏におり、成紀に徙る。廣家は世世射を受く。
孝文帝十四年、匈奴大いに蕭關に入る。而して廣、良家の子を以て軍に從い胡を撃つ。善く騎射を用い、殺首虜多く、漢の中郎と為る。廣の從弟李蔡も亦た郎と為り、皆武騎常侍と為り、秩八百石。嘗に狩猟に從い、陥に衝し關に折し猛獣を格すに及びて、(「有所衝陷折關及格猛獸」この句は難解である。戦場での行為と狩猟での行為との両説がある。『漢書』はこの部分を「數從射猟、格殺猛獣」に作る。これにより狩猟での行為と解し、「衝陷折關」は穴に落として仕留め、柵に追い込んで仕留める意に解す),文帝曰く、「惜乎、子、時に遇わず。如し子をして高帝の時に當らしめば、萬戶侯も豈に足ると道わんや。」孝景初めて立つに及ぶや、廣、隴西都尉と為り、徙りて騎郎將と為る。呉楚軍する時、廣、驍騎都尉と為り、太尉亞夫に從い、呉楚の軍を撃ち、旗を取り、功名を昌邑の下に顯す。梁王、廣に將軍の印を授くるを以て、還りて賞行われず(将軍の印を授けたのは漢朝が認めたものでないので恩賞がなかった)。徙りて上谷の太守と為り、匈奴と日々以て合戰す。典屬國(索隠:案ずるに、典屬國は、官名なり)の公孫昆邪、上の為に泣きて曰く、「李廣の才氣は、天下無雙にして、自ら其の能を負み、數々虜敵と戰う。之を亡わんことを恐る。」是に於て乃ち徙して上郡の太守と為す。後廣轉じて邊郡の太守と為り、上郡に徙る。
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