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2019年11月02日10:28

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『孟子』巻第十四盡心章句下 二百五十七節、二百五十八節

                     二百五十七節
孟子は言った。
「心を養うには、欲を少なくするに勝るものはない。その人が欲の少ない性格であれば、たとえ徳が備わっていなくとも、それはほんのわずかで、大したことではない。その人が欲の多い性格であれば、たとえ徳を備えていても、それはほんのわずかなものである。」

孟子曰、養心、莫善於寡欲。其為人也寡欲、雖有不存焉者、寡矣。其為人也多欲、雖有存焉者、寡矣。

孟子曰く、「心を養うは、寡欲より善きは莫し。其の人と為りや寡欲なれば、存せざる者有りと雖も、寡し。其の人と為りや多欲なれば、存する者有りと雖も、寡し。」

<解説>
無欲である必要はないが、欲に目を奪われてはいけないということである。老子などは無欲を主張している。

                     二百五十八節
曾子の父の曾皙は黒棗が好きだった。父の死後、曾子は黒棗を見ると父を思い出すので、それを食べるのに忍びなかったと言う。それについて公孫丑は尋ねた。
「膾や焼き肉と黒棗とはどちらが美味しいでしょうか。」
孟子は言った。
「膾や焼き肉だよ。」
公孫丑は言った。
「それならば父の曾皙も膾や焼き肉を食べていたはずなのに、どうして黒棗だけが父を思い出して食べるのに忍びなかったのでしょうか。」
「膾や焼き肉は誰もが好物とするものだが、黒棗は曾皙一人が好んだものだ。それは君や親の名は忌んで口にしないが、姓は忌まないのと同じである。姓は多くの人が共有するが、名は特定の人だけのものだからである。」

曾皙嗜羊棗。而曾子不忍食羊棗。公孫丑問曰、膾炙與羊棗孰美。孟子曰、膾炙哉。公孫丑曰、然則曾子何為食膾炙而不食羊棗。曰、膾炙所同也、羊棗所獨也。諱名不諱姓、姓所同也、名所獨也。

曾皙、羊棗を嗜む。而して曾子、羊棗を食らうに忍びず。公孫丑問いて曰く、「膾炙と羊棗とは孰れか美き。」孟子曰く、「膾炙なるかな。」公孫丑曰く、「然らば則ち曾子は何為れぞ膾炙を食らいて、羊棗を食らわざる。」曰く、「膾炙は同じうする所なるも、羊棗は獨りする所なればなり。名を諱みて姓を諱まざるは、姓は同じうする所なるも、名は獨りする所なればなり。」

<語釈>
○「曾皙」、曾子の父。○「羊棗」、棗の一種で黒棗。○「膾炙」、膾と焼き肉。

<解説>
特に解説することはない。

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