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2019年10月17日10:28

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『孟子』巻第十四盡心章句下 二百五十一節、二百五十二節、二百五十三節

                     二百五十一節
嘗て孟子に学んでことがある盆成括が齊に仕えた。それを知った孟子は言った。
「殺されるだろう、あの盆成括という男は。」
その後果たして彼は殺された。それを知った門人たちは孟子に尋ねた。
「先生はどうして彼が殺されるだろうと思われたのですか。」
「あの男の人柄は、なまじっか小才があって、君子の踏むべき仁義謙順の大道を学んでいない。それでは小才に頼って、結局身を亡ぼすことになるだけなのだ。」

盆成括仕於齊。孟子曰、死矣盆成括。盆成括見殺。門人問曰、夫子何以知其將見殺。曰、其為人也小有才。未聞君子之大道也。則足以殺其軀而已矣。

盆成括、齊に仕う。孟子曰く、「死なん、盆成括は。」盆成括殺さる。門人問うて曰く、「夫子は何を以て其の將に殺されんとするを知るか。」曰く、「其の人と為りや、小しく才有り。未だ君子の大道を聞かざるなり。則ち以て其の軀を殺すに足るのみ。」

<語釈>
○「盆成括」、趙注:盆成は姓、括は名なり、曾て孟子に学び、道を問わんと欲するも、未だ達せずして去る。○「君子之大道」、趙注:未だ君子の仁義謙順の道を知らず。

<解説>
身に沿わない知識をひけらかし、知ったかぶりをしていると、身を亡ぼすことになるという教えである。

                           二百五十二節
孟子が滕の国へ行き、離宮に泊まったとき、たまたま作りかけの靴を窓の上に置き忘れた者がいた。館の人が探したが見つからなかった。ある人が言った。
「ひどいものですね。先生の従者ともあろう方が、人の靴を隠すなんて。」
「あなたは、従者が人の靴を盗むためにわざわざここまで来たと思っているのか。」
ある人は後悔して言った。
「そのようなことは、まずありえないと思います。」
「だいたい私が教科を設け人に教えるやり方は、去る者は追わず、來る者は拒まず、ということだ。だから少なくとも学びたいという心を以てやって来たのであれば、私は受け入れるだけの事です。だから中には不心得者がいることもあるでしょう。」

孟子之滕、館於上宮。有業屨於牖上。館人求之弗得。或問之曰、若是乎從者之廋也。曰、子以是為竊屨來與。曰、殆非也。夫予之設科也、往者不追、來者不距。苟以是心至、斯受之而已矣。

孟子滕に之き、上宮に館す。牖上に業屨有り。館人之を求むるも得ず。或ひと之に問いて曰く、「是の若きか、從者の廋(かくす)すや。」曰く、「子は是れ屨を竊むが為に來たれりと以えるか。」曰、「殆ど非なり。」「夫れ予の科を設くるや、往く者は追わず、來たる者は距まず。苟くも是の心を以て至らば、斯に之を受くるのみ。」

<語釈>
○「上宮」、諸説あるが、こだわることはない。離宮ぐらいに解しておく。○「有業屨於牖上」、趙注によれば、作りかけの屨(くつ)を、牖(ユウ、まど)の上に置き忘れていた意。

<解説>
この節は読み方によっては微妙に見解が変わる。孟子自身が従者の行為を疑っているのかどうか、それは分からない。もし疑っていれば、この節の内容は孟子の必死の弁明になるだろう。少なくとも最後の孟子の言葉、「斯に之を受くるのみ。」は逃げ道を作った感がする。

                             二百五十三節
孟子は言った。
「人は皆害を加えるに忍びない愛する人がいるものだ。その心を愛さない人にまで及ぼすのが仁である。人は皆これはしてはいけないと言うものを持っている。その心をあらゆる行いに対して及ぼすのが義である。他人に害を加えることを望まない心で己の心を充たせば、仁の効用は限りなく広がるだろう。塀に穴をあけ垣を乗り越えたりして、他人の物を盗むなどの不当の利益を得ることを、悪として退ける心で己の心を充たせば、義の効用は限りなく広がるだろう。人からおいお前などと呼ばれて軽蔑されないように人間性を充実させれば、どこへ行ったとしても、義を行うことが出来るようになる。士でありながら、言うべきでないのに言うのは、言うことによって相手に取り入ろうとするものだ。逆に言うべきときに言わないのは、言わない事によって相手の心を引き寄せようとするものだ。これらは皆盗人の類である。」

孟子曰、人皆有所不忍。達之於其所忍、仁也。人皆有所不為。達之於其所為、義也。人能充無欲害人之心、而仁不可勝用也。人能充無穿踰之心、而義不可勝用也。人能充無受爾汝之實、無所往而不為義也。士未可以言而言、是以言餂之也。可以言而不言、是以不言餂之也。是皆穿踰之類也。

孟子曰く、「人皆忍びざる所有り。之を其の忍ぶ所に達するは、仁なり。人皆為さざる所有り。之を其の為す所に達するは、義なり。人能く人を害せんと欲する無きの心を充たさば、仁勝げて用う可からざるなり。人能く穿踰する無きの心を充たさば、義勝げて用う可らざらるなり。人能く爾汝を受くる無きの實を充たさば、往く所として義為らざるは無きなり。士未だ以て言う可からずして言う、是れ言うを以て之を餂るなり。以て言う可くして言わざる、是れ言わざるを以て之を餂るなり。是れ皆穿踰の類なり。」

<語釈>
○「所不忍」、趙注:人皆愛する所有り、惡を加うるに忍びず、之を推して以て愛せざる所に通ぜば、皆徳を被らしむ、此れ仁人なり。○「所不為」、してはいけないこと、不義をしないこと。○「穿踰」、趙注:牆を穿ち、屋を踰ゆ、姦利の心なり。塀に穴をあけ垣を乗り越えたりして他人の物を盗むこと。○「爾汝」、おいこら、おいお前などの賎称、又そのように呼んで人を蔑むこと。○「餂」、趙注:「餂」は「取」なり。相手の心に取り入ろうとすること。

<解説>
ここでは仁と義が非常に分かりやすく説かれている。人は誰でも愛する者がいる、その心を全ての人に及ぼすことが仁である。キリスト教の博愛主義と同じである。又人は誰でもこれだけはしてはいけないと言うものを持っている。乃ち不義を為さないということであり、その不義を為さないという心をあらゆることに及ぼすのが義である。

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