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2019年02月07日10:21

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『孟子』巻第十一告子章句上 百五十五節、百五十六節

                            百五十五節
公都子が尋ねた。
「同じく人間でありながら、或る者は大人物になり、或る者は小人物になるのは何故でしょうか。」
孟子は言った。
「大体、乃ち心に従って行動すれば大人物になれるし、小体、乃ち耳目の欲に従って行動すれば小人物になる。」
「同じく人間でありながら、或る者は心に従い、或る者は耳目の欲に従うのは何故でしょうか。」
「耳や目の器官には心がないので判断することが出来ず、外物に影響されてしまう。耳目が外物に接すれば、耳目はその外物に引き寄せられてしまう。それに対して、心の働きは考えることができる。考えることが出来れば、正しい道を得ることが出来るが、考えなければ得られない。この耳目も心も天が与えてくれたものだが、その中で、まず大なる物、乃ち心を第一に考えて確立すれば、小なる物、乃ち耳や目の欲が心を奪い惑わすことは出来ない。これが大人物なのだ。」

公都子問曰、鈞是人也。或為大人、或為小人、何也。孟子曰、從其大體為大人、從其小體為小人。曰、鈞是人也。或從其大體、或從其小體、何也。曰、耳目之官不思、而蔽於物。物交物、則引之而已矣。心之官則思。思則得之、不思則不得也。此天之所與我者、先立乎其大者、則其小者弗能奪也。此為大人而已矣。

公都子問うて曰く、「鈞しく是れ人なり。或いは大人と為り、或いは小人と為るは、何ぞや。」孟子曰く、「其の大體に從えば大人と為り、其の小體に從えば小人と為る。」曰く、「鈞しく是れ人なり。或いは其の大體に從い、或いは其の小體に從うは、何ぞや。曰く、「耳目の官は思わずして、物に蔽わる。物、物に交われば、則ち之を引くのみ。心の官は則ち思う。思えば則ち之を得るも、思わざれば則ち得ざるなり。此れ天の我に與うる所の者、先づ其の大なる者を立つれば、則ち其の小なる者奪うこと能わざるなり。此れ大人為るのみ。」

<語釈>
○「大體、小體」、朱注:大體は心なり、小體は耳目の類なり。

<解説>
この節の論旨も、前節の、「其の小を養う者は小人為り、其の大を養う者は大人為り。」の内容と同じであり、前節の続きの感がある。

                             百五十六節
孟子は言う。
「天爵というものがあり、人爵というものがある。仁・義・忠・信の四徳を具え、善を楽しんで倦むことを知らない。これが天から与えられた天爵である。公・卿・大夫という世俗の身分。これが人から与えられた人爵である。古の人はその天爵を修めることに務め、その結果人爵が勝手についてきた。今の人はその天爵を修めることに務めるのは、それにより人爵を手に入れようとするためで、その人爵を手に入れてしまえば、その天爵を棄ててしまう。これは心の惑いの甚だしいものである。そんなことではせっかく手に入れた人爵もやがて失ってしまうに違いない。」

孟子曰、有天爵者、有人爵者。仁義忠信、樂善不倦、此天爵也。公卿大夫、此人爵也。古之人修其天爵、而人爵從之。今之人修其天爵、以要人爵。既得人爵、而棄其天爵、則惑之甚者也。終亦必亡而已矣。

孟子曰く、「天爵なる者有り、人爵なる者有り。仁義忠信、善を樂しみて倦まざるは、此れ天爵なり。公卿大夫、此れ人爵なり。古の人は其の天爵を修めて、人爵之に從う。今の人は其の天爵を修めて、以て人爵を要む。既に人爵を得て、其の天爵を棄つるは、則ち惑の甚しき者なり。終に亦た必ず亡せんのみ。」

<語釈>
○「終亦必亡而已矣」、朱注:終には必ず其の得る所の人爵を幷せて、之を亡うなり。

<解説>
天爵とは仁・義・忠・信の徳義であり、それを修めるとは學ぶということである。すなわちここで説かれているのは、学問は何のためにするのかということであり、学問を立身出世の手段としてはいけないということである。立身出世の為に学問することが必ずしも悪いことではないと思うが、朱子の言う「修己治人」を忘れないことが肝要ではなかろうか。

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