四斤山砲は1877年の西南戦争でも、政府軍と西郷軍の双方で主力大砲として使用された。この頃には既にプロイセンから、クルップ8センチ野砲なども入ってきていたが、数的に何と言っても四斤山砲が主力であり続けた。明治政府はクルップ砲を主力とするつも
フランス製の軽量砲、四斤山砲は幕末に日本に入ってきて、各地でコピー生産の試みが行われた。幕府の関口製造所は、極めて精巧なコピー品の製造に成功したという。四斤山砲の日本における実戦は、1866年の第二次長州征伐である。その後明治維新後の戊辰戦
日本の幕末シリーズ、続いては大砲編だ。この当時の野戦用大砲には野砲と山砲とがあった。野砲というのは通常の野戦砲で、山砲に比べると砲身が長く、射程距離も長い。砲架車に載せた状態でおよそ1トンくらいの重量がある。これを馬4〜5匹で牽引して移動す
幕末日本の軍艦シリーズ、トリを飾るのはストーンウォールである。日本の軍艦なのにカタカナ名前だが、この艦はもともとアメリカの軍艦である。南北戦争真っ盛りの1863年、南軍であるアメリカ連合国がフランスに対して発注した船である。前にも書いた通り
ここまでは江戸幕府の軍艦であった。ここからは倒幕側、つまり明治新政府軍の軍艦である。軍艦はカネがかかるから、幕府に比べてカネの無い倒幕側の海軍力は大きく見劣りする。倒幕側で最も裕福な藩は薩摩であったが、その薩摩とても蒸気動力の軍艦は、イギリ
幕末軍艦シリーズだが、いよいよ真打登場(?)開陽丸である。全長73m、全幅13mで排水量2590トンという蒸気フリゲート艦。これは幕末期の軍艦としては群を抜いて大きく、この艦1隻があるだけで幕府海軍が倒幕側海軍よりも優位に立っていた、といわ
幕末の蒸気船、お次は「回天」である。回天は長崎奉行が、イギリスからアメリカの業者経由で買い取った船である。その前身はプロイセンの軍艦ダンツィヒ号であった。1855年、軍備を急激に増強させていたプロイセンが海軍創設を決定。それまで商船しか建造
蒸気船を動かすには石炭が必要だ。九州の筑豊炭田や三池炭田では、江戸時代にすでに採掘が始まっていて、ここで産出された石炭が使用できた。この頃にはアメリカの援助を受けて蝦夷地の釧路炭田に、近代的炭鉱も作られていたそうだ。1862年に幕府の軍制改
長崎伝習所にあった4隻の蒸気船。今度は蟠竜丸である。この船は英国王室所有のクルーザーヨットで、木造スクーナー型汽帆船である、1858年に日英修好通商条約締結が行われた際に、イギリスのヴィクトリア女王から幕府へ贈呈された。全長42m、全幅5.
1860年、日米修好通商条約が締結されることになった。その批准書を交換するため、日本から遣米使節団がアメリカに渡ることになった。使節団一行はアメリカ軍艦ポーハタン号に乗って渡ったが、その際に随行艦として長崎海軍伝習所の練習艦であった咸臨丸も
君沢形建造の一件は、洋式艦の建造技術習得に大きく貢献したらしい。勝海舟は鳳凰丸などの建造よりも、ロシア人技術者から手ほどきを受けながら建造した、この君沢形のほうがよっぽど洋式艦としてしっかりしている、と評価した。1856年までに合計10隻の
1855年に江戸幕府は海軍士官養成のために長崎海軍伝習所を設立した。これは当時唯一外交関係のあった西洋国家、オランダの協力で出来たものであった。設立にあたり、オランダからは教師の派遣と練習艦として蒸気船「観光丸」の寄贈があった。これと並行し
1853年アメリカのペリー艦隊来航。いわゆる黒船は、日本人の度肝を抜いた。前回書いた、幕府が建造した洋式船は、全長16.7m全幅4mだったが、ペリー艦隊の旗艦、サスケハナは全長78m全幅14mである。まるでマグロとイワシである。この来航を受
軍艦、大砲、銃の話であるが、ここからはしばらく幕末から明治にかけての日本について書こうと思う。戦国時代からほとんど進歩の無かった日本の軍事面が、西洋化近代化していった時期である。まず軍艦から行ってみる。江戸時代の日本は諸藩に対しては、大船建
銃、大砲、軍艦の進歩をたどってきて、アメリカの南北戦争に関連することを書いてきた。戦争は兵器の大量生産を発生させる。特に南北戦争はこれまでにないほどの大規模な戦争だったから、銃も砲も軍艦もすごい数が生産された。こうした兵器は戦争が終結すると
シャープス銃によって後装式ライフルの有用性を知ったアメリカでは、国営スプリングフィールド造兵廠の他に、銃器メーカーとしてアメリカきっての老舗レミントン社も、後装式ライフルを開発していた。1865年に開発された後装式ライフルは、ジョセフ・ライ
M1865はヒンジド・ブリーチブロックという方式を取った。薬室の後ろを塞ぐための金属ブロックを、蝶番で動かせるようにしたものだ。この方式はシャープス銃のフォーリングブロック方式に比べると、固定化が弱くなるが金属カートリッジのおかげで、燃焼ガ
1861〜1865年のアメリカ南北戦争は、銃器の歴史上最重要の事件の一つである。何せ北軍だけでも使用した銃の総数は優に100万挺を超える。南北合わせて200万挺もの銃が使用されたのである。第一次、第二次の二つの世界大戦を除けば、最多である。
レバーアクション連発式小銃、2つ目はベンジャミン・タイラー・ヘンリーの設計によるヘンリー・ライフルである。前回のスペンサー・ライフルでは、銃床内にチューブ式弾倉を内蔵していたが、こちらは銃身の下にチューブ式マガジンを取り付けている。写真では
金属式カートリッジとレバーアクションを活用した、連発式小銃は1860年にアメリカで登場した。面白いことに、同じ年に2つの製品が登場している。まあ同じことを考えて発明してやろう、という人間が結構居たということだろう。まず1つ目がクリストファー
南北戦争、今度は1864年2月17日。この日、南軍の潜水艦がチャールストン港にて海上封鎖の任務にあたっていた、北軍の蒸気軍艦フーサトニック(排水量1200トン)を、外装水雷による攻撃で沈没させた。これが潜水艦による敵艦撃沈の第1号となった。
南北戦争ネタはまだまだ続く。この戦争では色々な新兵器が登場している。海戦の分野でも新兵器が生まれている。南北戦争では、水雷艇が登場した。1863年10月5日、南軍の水雷艇デイヴィッドが、北軍の装甲艦ニューアイアンサイドを、水雷攻撃で大破させ
今度は北軍の装甲艦モニターである。モニターは北軍によって新しく作られた装甲艦である。バージニアも相当に変な外見の船だったが、こちらのほうがさらに変である。もはや水上艦には見えない。潜水艦だろこれ?という外見である。中央に突き出た部分が砲塔で
1862年3月8日、バージニア州ハンプトン・ローズで、海戦が行われた。この海戦で史上初めての、装甲艦同士の戦闘が行われた。北軍の戦力は装甲艦「モニター」と、木造の軍艦が3隻。南軍は装甲艦「バージニア」と木造軍艦3隻、と全くの互角。この海戦は
1960年代には、蒸気推進+鉄装甲の艦建造ラッシュが訪れた。近代海軍の幕開けと言って良い時期である。この時期に起こった大きな戦争と言えば、アメリカの南北戦争である。南北戦争は陸戦メインと思われているが、船の戦いも結構起きている。北部の州と南
クルップ社製大砲、最初のヒット商品が8センチ野砲である。1851年のロンドン万博で金賞を獲得した大砲だ。プロイセン軍にはなかなか認めてもらえなかったが、ビスマルクとの交友関係を使って、1864年に制式採用を獲得した。6ポンドの重さの砲弾で、
砲尾閉鎖部の破裂事故は後装式大砲にとって、最大の壁。クルップ砲も例外では無い。これに対しては、1877年にフランスのド・バンジュが完璧な回答を出すのだが、それまではトライ&エラーの連続だった。ま、とりあえずクルップも改良して、やってきたのが
クルップの最初の鋼鉄製大砲の試作は1847年に行われた。この砲はライフル砲で、しかも後装砲だった。アームストロング砲よりも早い後装式ライフル砲、しかも鋼鉄製である。アルフレートはこの砲をプロイセン陸軍に持ち込み、売り込みを図ったが取りつく島
ここまで19世紀時点の大砲と、その材料となる鉄について、書いてきた。さて、19世紀+鉄+大砲となると、絶対に欠かすことができない人物がいる。ドイツ・ルール地方のエッセン出身で、歴史上初めて「死の商人」と呼ばれた男、アルフレート・クルップ。彼