二週間遅れとなってしまいましたが、三連休の最終日に千葉県夷隅郡(いすみぐん)にある大多喜城(おおたきじょう)を訪問してきました。
1521年に真里谷信清(まりやつのぶきよ)に築城された小田喜城(おだきじょう)を、徳川家康の江戸移封に伴い入部した本田忠勝(ほんだただかつ)が改築したと考えられています。
本丸には昭和に入り、千葉県立中央博物館の分館という形の天守が再建されています。
が、元々大多喜城に天守があったかどうかは意見が分かれており、現在でも結論が出ていません。
現在の建てられている天守は天保6年(1835年)の天守絵図を参考に建築されていますが、この絵図が正しいなら外見復元天守(工法は違うものの外見は酷似している)となり、天守はあったものの絵図が正しくないなら復興天守(天守は実在したが外見が全く違う)、天守が存在していなかった(現時点では最有力)場合は模擬天守(天守がなかったにも拘らず建てられた)となるという、なんとも微妙な立場の天守です。
天守がなかった説の証拠として天守台の痕跡が一切ないからというものがありますが、本丸は一度完全に削平されてしまったので、そもそも天守台の痕跡も破壊されてしまっている、という考え方も出来るとか。
ただし、本丸にはこのような土塁も残っているので、天守台が跡形もなく破壊されたという説には、ちょっと疑問を感じます。
二の丸に位置する場所には現在は大多喜高校があり、その敷地内に大井戸と薬医門が残っています。
きちんと見学したい旨を伝えれば校内に入れるそうなのですが、薬医門の方は見学しそこなってしまいました。
さて、大多喜城の近くには大多喜根小屋城(おおたきねごやじょう)と呼ばれる小さな城があり、以前はそこが信清の築いた小田喜城だとされていました。
発掘調査が行われた際には、日用品などの遺物が出土したそうです。
現在の通説ではこの場所が小田喜城だったことはほぼ否定されていますが、
このような感じで水田の中に、数メートル程の比高を持った高台に築かれているんです。
記念碑はこのような天守台(?)風の高台に設置されているので、ここに何らかの構造物があり、それが軍事的な防御設備を有していたのは間違いないと思います。
その場所から見た大多喜城。
一般的ではないものの、千葉県は城跡が多いんですよ。
是非とも見学したい城は沢山ありますし、私が好きな東国動乱にまつわる場所も多いので、一つ一つじっくりと見学していこうと思います。
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