ここのところ、思うように城訪問が出来ず苦悩中のいんちょうです。
12月最初の日曜日には、川崎市多摩区にある、小沢天神山城(おざわてんじんやまじょう)に行ってきました。
歴史的には1300年代半ばに登場しますが、北条氏綱と扇谷上杉朝興との戦いに利用された可能性もあるとか。
実際、この城の北東約5キロの場所には、深大寺城(じんだいじじょう)という扇谷上杉家にとって重要な城があり、その城に対する前線基地のような役目も持っていた可能性は、あると思います。
上の写真は、京王稲田堤駅から歩いていく途中に撮影したもので、北から東にかけてを多摩川の支流である三沢川(みさわがわ)が、天然の水堀として機能しています。
この城の面白い所は、本来の山城ならば、本丸や櫓台として使用するために削平しているところを、あまり手を加えていないという点です。
南側の斜面にはかなりの面積を持つ曲輪が設けられているので、時間的や人員的な制約があったわけではないと思います。
一説によると、深大寺城からここに城を取ったことを悟られない為に、わざと登頂部に手を加えなかったのでは、と言われています。
また西側の谷沿いには鎌倉街道が通っていたとも言われており、その街道を監視し、なおかつ利用して秘密裏に軍勢を入城させられる、などとも推測されてもいますが、はたしてそこまで考えて造られたのかは、大いに疑問です。
まあ、縄張りを見ると、純軍事的な城だったことは間違いなく、散策道としてきれいに整備もされているので、入門編の山城としていいかもしれません。
この日は、mixiコミュのイベントとして、等々力渓谷の散策もしてきました。
多摩川沿いの都会のど真ん中といっても過言ではない場所に、これだけの渓谷があるのも驚きですが、それだけ多摩川の北岸側は台地状の地形だという証拠。
そして九品仏で有名な浄真寺(じょうしんじ)は、奥沢城(おくざわじょう)と呼ばれる城だったんです。
1300年代半ばにこの地を統治した吉良氏(きらし)の居城、世田谷城(せたがやじょう)の出城(でじろ。本拠となる城を補佐するための城)として、家臣の大平氏(おおひらし)が守ったとされています。
総門を入り左に曲がった山門の横には、小さいながらも土塁が残っており、墓所の拡大などにより一部は破壊されてしまったものの、以前は境内の全周を覆っていたそうです。
また、南側の道は水堀の名残とされています。
それを考慮すると、奥沢城は大平氏の住居も兼ねた、方形館(ほうけいかん。館の周りを四角型の土塁と堀で覆ったもの)に近かったのではと想像します。
ここで城マニアの妄想です。
この城の西側には等々力渓谷があり、現代と異なり橋の整備に木材を使うしかなかった中世では、北側に迂回するか多摩川沿いの道を利用するか、渡れる箇所はごく限られていたはずです。
北側に迂回すれば世田谷城近辺を通るしかないのですが、多摩川沿いを行かれると少し距離がありすぎる。
また多摩川の河川流通(主に奥多摩からの材木を江戸へ運ぶ)の監視をするためにも吉良氏は奥沢城を築城したのではないでしょうか。
世田谷城は、現在は世田谷城址公園として整備されていますが、他の支城群が残念ながら開発のために遺構は残されていません。
それでも地形などから、こんな妄想遊びをする事も可能なんです。
また小沢天神山城の周囲にも(使用期間のずれこそあれ)、多数の城跡があります。
これもこの辺りが多摩川の渡河点(とかてん。流れがゆるい、水深が浅いなど、川を渡りやすい場所)だったからかもしれません。
遠くの城まで出かけなくても、こういった城で楽しめるのもこの趣味の醍醐味の一つです。
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