mixiユーザー(id:16951242)

2019年11月18日23:38

96 view

思い立ったが駿東城の旅

 先週の日曜日になってしまうのですが、朝になってグーグルマップを見ていたところ、なんとなーく面白そうな城を見つけてしまったので、行ってみる事にしました。
フォト

 まず行ったのは、葛山城(かずらやまじょう)
 静岡県裾野市にある城で、地元の武士である葛山氏の居城とされています。
 この葛山氏、今川氏に従属した後は、伊豆、相模に勢力を伸ばしてきた伊勢氏(後北条氏)の配下になり伊勢宗瑞の嫁となった修善寺殿が、北条5代主を補佐し続けた、北条幻庵(ほうじょうげんあん)の母親にあたります。
 後に甲斐武田氏に鞍替えするも後北条氏との密通を疑われ滅ぼされてしまいます。
 その名跡を残そうと、最後は信玄の6男信貞(のぶさだ)を入り婿させましたが、そこで断絶してしまったようです。
フォト

 古刹、仙年寺(せんねんじ)の裏山を城郭化していますが、明確に防御しようとしているのは二重堀切と大堀切で区切られた二の丸、一の丸だけのような気がします。
フォト

 縄張図一番右側の大手曲輪は、簡単に削平されてはいるものの、堀や土塁と言った構造物がありません。
フォト

 大手曲輪と東曲輪の間には櫓台のような盛り上がりがあり、若干横堀のような構築物があります。
フォト

 東曲輪も基本的には削平されたただの平地です。
 それぞれの曲輪を繋ぐ道も、自然地形の山の斜面をそのまま利用しているだけで、導線を折り曲げたりするような工夫がしてありません。
フォト

 東の堀切と竪堀。
 右に写っている手すりは、もう一つの竪堀を利用して仙年寺に降りる山道。
フォト

 一の丸はそれなりの広さがあり北側には土塁も残されています。
フォト

 二の丸と続いている腰曲輪ですが、実際は二の丸が本丸の北以外の三方を取り囲んでいるような縄張りです。
フォト

 本丸から東の方向を撮影。
 この方向には黄瀬川(きせがわ)が流れていて、箱根山系を迂回して御殿場方面から南下してくる街道沿いに位置しているんです。
 駿河の国(今川氏)と相模の国(後北条氏)、そして甲斐の国(武田氏)の国境が絡み合う重要な地区だった事がわかります。
フォト

 大堀切を西に向かった先は西曲輪とされていますが、実際はこのような自然地形がそのままという感じになっています。
 西の方向はこのまま愛鷹山(あいたかやま)、ひいては富士山に向かって標高が高くなっていくばかりなので、こちらからの侵攻は考えていなかったのかもしれません。
 大手曲輪から二重堀切までのややぼんやりした縄張りも、一つの陣地である程度の抵抗をした後は次々と撤退し、最終的に二の丸で守り切るという守備を考えていたと思います。
 さて、葛山地域には、葛山氏館と呼ばれる方形館跡も残されています。
フォト


フォト


フォト

 内部は耕作地になっていますが、その周りを高さ3メートル程の立派な土塁が覆っています。
フォト

 館跡近辺から見た、葛山城。
 以前は、室町時代から安土桃山時代にかけての武士は、平時は土塁と堀に囲まれた平地の館に住み、いざ戦時となったら山の上にある城に籠る、という生活をしていたとされていました。
 同時代の研究が進むにつれ、そういう構造はごく一部の限られたものしか行っていなかったとされるようになりましたが、こうもしっかり史跡として残されているのも面白い状況ですね。
 
フォト

 続いて尋ねたのは、千福城(せんぷくじょう)。
フォト

 普明寺(ふめいじ)の裏手の山が千福城で、葛山城からの直線距離は約2キロ程度なので、同じように葛山氏により築城されたそされています。
フォト

 一の丸はきれいに削平されていますが
フォト


フォト

 それ以外は放置されていたり農耕地になっていたりして、あまり遺構の残りは良くありません。
フォト

 縄張りの中央部を大堀切で二分しているのですが東名高速道路建設の際にかなり遺構を破壊してしまったらしく、縄張りの価値をしっかり図れないのが残念。
 葛山氏による築城が事実だとしたら、南の方向を監視するための支城だったのでは、と想像してみました。

 最後に行ったのは、柏木館跡(かしわぎやかたあと)。
フォト

 これまた平地にある土塁で囲まれた館跡なのですが、対になるような山城はありません。
フォト

 面白いのは、土塁の他に水堀も残されているところ。
 これは近くを流れる大場川(おおばがわ)の流れを取り込んで造られています。
フォト

 入り口にある石碑と土塁。
フォト

 外から見るとこんな感じで、中はグラウンドなどの運動公園になっているので、史跡と認識していない住民もいます(実際場所を聞いても知らなかった家族がいた)。

 あと一か所、大畑城という城が近くにあるのですが、場所を間違えてしまって今回は訪問できず。
 なんか嫌な情報を聞いてしまって、「一人で行く」ならその情報聞きたくないなぁ、なんて思ってみたり(苦笑)

 今回訪問して思ったのは、この地域(駿府の国の東側という事で駿東(すんとう)と呼ばれる)が国境として戦いの第一線にあったという事。
 一国を司る大名と、その権力争いの中で自らの生き残りを図る国衆達の生き様を感じることが出来ました。
フォト


4 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する