11月に入り、山城巡りに適した季節になりました。
本当なら10月くらいから城巡りをしたかったのですが、なにせパソコンがぶっ壊れてしまって、それの復旧に手間取ってしまい中々外出できなかったんですよ。
で、どの辺から回ってみようかと思い、新九郎こと伊勢盛時に関わる城から始めてみようかなと。
ゆうきまさみさんの漫画「新九郎、奔る!」の聖地巡礼ですね(笑)
と言いつつ、最初は神奈川県小田原市にある石垣山城。
豊臣秀吉が後北条氏の小田原城を攻略する際に築城した城で、一夜にして築いたという伝説から「一夜城」とも言われていますが、実際には80日間ほどかけてほぼ完成させた、というのが実情です(それでも当時としては、とんでもない突貫工事による短い工期)。
城域の一部は刈り払いというか樹木の伐採が進んでいます。
どうやら樹木の根が張ることによる石垣の崩壊を防ぐためのようですが、観光地化に向けての整備という側面もあるようです。
いつ来ても井戸曲輪を覆う石垣には感嘆させられます。
意外と見逃してしまう、南曲輪の石垣。
東日本の山城でも屈指の大石垣だと思います。
続いて訪れたのは、静岡県沼津市にある興国寺城。
後北条氏の祖である、北条早雲こと伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)が戦国大名としての旗揚げをした城として有名で、戦国時代を通じて後北条氏の城として活躍しました。
本丸跡には穂見神社が祀られているのですが、その周囲を巨大な土塁が覆っているんです。
この土塁は土を積み上げたものではなく、元からあった地形を掘って作ったもののようで、その際に排出された土砂は三の丸の土塁や曲輪を作るための埋め立てに利用されたのではと思います。
土塁の一部には石積みがあり、天守台跡とされています。
築城時期を考えると天守というよりも見張り用の櫓台だと思うのですが、わざわざ石積みをしたのは、後年それが必要とされたからなのだと思います。
本丸の背後、北の丸との間には、これまた立派な空堀があります。
興国寺城は愛鷹山から続く尾根が沼地に張り出している場所を占地しているので、北側から攻め入られるのを防ぐためなのでしょう。
天守台から駿河湾を望む。
一応、これから話す長浜城方面を写したつもりなのですが・・・
その長浜城です。
駿河国に侵攻してきた武田氏の水軍に対抗するために、1579年に後北条氏によって築城された海城で、駿河湾における北条水軍の根拠地になっていました。
長浜城から興国寺城方面を撮影。
こうしてみると、二つの城で現在の沼津港の出入りを監視できるような位置関係にあるようですが、現代戦のような即応能力があるわけでもない戦国時代においては、あまりにも距離が離れているので、偶然の産物ではないかと思います。
海城とは言っても縄張りは陸地側から攻められた時の事を考慮したもので、二の曲輪と産の曲輪を隔てる堀切兼通路には門跡とはね橋が掛かっていたと言われる柱跡があります。
三の曲輪から二の曲輪を望む。
この間に上記の写真に写っている堀切があって、ここにはね橋があったとされています。
が、堀切の深さは2メートルもなく、縄張り的にもここだけにはね橋などという凝ったからくりがあったというのは、どうにも不自然です。
二の丸。
多数の柱跡があり複数の建物があったことがわかっています。
後ろの小高い場所は本丸で、復元櫓によって行き来できますが、これも時代考証によったものではないでしょう。
本丸から海に向けた帯曲輪群を撮影。
海に向かって縄張りが続くのは、水軍基地としての意義から理解できるのですが、この曲輪がどのように利用されていたのかは不明。
こんな感じで波打ち際まで降りれます。
後述する田久曲輪側に多くの軍船が係留されていたそうなので、この場所の用途も不明です。
その田久曲輪。
現在は資料を参考に安宅舟の原寸大模型が置かれています。
全長が25メートルほどもある戦国時代の水軍主力艦艇で、写り込んでいる車と比較すれば、その大きさが理解できると思います。
水軍拠点の戦国時代の城という意味で、長浜城は貴重な存在だとは思います。
ただ近代民間人に買い取られ、別荘として整備された事から、遊歩道や壁面の一部がコンクリートで補強されていたり、明らかに近代の石積みが混在していたりと、城の遺構としてはやや残念な存在です。
対して興国寺城は、今年4月に続100名城に指定されたように、見ごたえのある遺構が残っています。
ぜひ訪れてみて「土の城」の面白さを実感してほしいです。
そうそう長浜城の近くには、獅子浜城という城もあったのですが、遺構は残されていまいようなので今回はカウントしませんでした。
沼津市内にはまだまだ色々な城があるので、また近いうちに訪問するつもりです。
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