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2020年10月07日16:08

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繊細なものに宿る天平の崇高さ 「正倉院宝物展」を観る

 名古屋の松坂屋美術館でこの3日から開催している「正倉院宝物展」の入場券を頂いた。恥ずかしながらこの歳まで、正倉院というところへは行ったことがないし、その収蔵物についても「シルクロードを経てなんちゃらかんちゃら」などということを聞いたことはあるが、実際にはなんの見識もない。これは行かずばなるまいと、腰を上げた次第。

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 ここで断っておかねばならないのは「宝物展」といっても、その収蔵品の現物が来ているわけではない。そのサブタイトル、「再現模造にみる天平の技」にあるように、すべてが「再現模造品」である。
 「な〜んだ」といってここで顔をそむけるあなた、あなたは決定的に間違っている。

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 なぜなら、まず大前提として、ホンモノの収蔵品を持ち出して展示することなどはまずもって不可能なのだから。
 それに、模造品ならではのメリットもじゅうぶんにあるのだ。それはまず、経年による損傷や退色を補って、それらが制作された当時の原型を観ることができる点にある。ようするに、「ホンモノ」より詳細にわたってそのディティールを鑑賞することができるのだ。

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 しかもこれらは、近年流行りの3Dプリンターでさっとなぞったものとはまったく異なる。明治の初期から始まったその複製作業は、人間国宝などの超一流の職人が、そのオリジナルの素材まで追求し、当時の技法をなぞって生み出したもので、1,300年前へタイムスリップしたような出来栄えなのだ。
 例えば、素材の絹糸などは、その後、大玉の繭に押されて廃れてしまった奈良時代の養蚕繭、小石丸をわざわざ復活させ、それから製糸をするという凝りようなのだ。

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 だから、ここに展示されているものは、徹底した学術調査の裏付けに支えられた超一流の技法による燦然たる芸術品といっていい。
 したがって私たちは、聖武天皇を始めとする天平貴族の命による贅を凝らした物品たちと、それを能う限り再現しようとする現代の優れた工芸家の最高水準の技倆とを合わせて鑑賞することができるのだ。

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 見終わった感想としては、想像以上に天平の工芸が繊細にして優美、かつ高い技倆に支えられているということ、それとその技術が飛鳥から続く百済などからの渡来人のそれを含めた東アジア全体にその基盤を持つということ、さらには当時の東アジアは一応、「くに」という仕切りはあったものの、にもかかわらず、文化や技術、文物の交流が豊かであったということだ。

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 個人的な思いとしては、天平時代の工芸の無駄とも過多とも思われる繊細な装飾の見事さのうちにある崇高さのようなものに撃たれた。崇高といえば、巨大な瀑布、オーロラのような天空の異変、荒れ狂う海など、スケールの大きさを引き合いに出して語られる場合が多いが(例えばカントの第三批判)、私は極小の繊細極まりない装飾、それを無心に造り上げた職人たちの息遣い、あるいは、機能的にみれば無用の用の極限ともいえるそれらを産み出す時代そのものの情熱のなかに、ある種の崇高さを感得したのだった。
 
 時代を越えて存続する制作に触れ合うこと、それは自分の生の連続性を改めて歴史の中に置いてみることかもしれない、というのはちょっとカッコ良すぎるまとめか。



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