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2019年04月09日09:36

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元号には興味がないけど、品田悦一さんと北條勝貴さんのお話が興味深かったので…

2019年 5月21日 追記

4月9日に載せた、年号「令和」の典拠についての記事に、
5月18日、品田悦一さんから、コメントをいただきました。(一番下に転載します)
それは、大きな話題になった、品田先生のもともとの「緊急寄稿」に対する、北條勝貴さんの意見と、わたしたちのコメントに対して宛てられたものです。

”もともとの”と形容したのは、品田先生は、4月20日に改訂版を公開されていて、
その中で「緊急寄稿」について、「あの文章は四月一日の晩に大急ぎで書いたもので、言い足りない点がいろいろあったため、七日から九日にかけて大幅な書き直しを行ないました。それが以下の決定稿です。今後はこちらの、進化したバージョンを拡散してください」と書かれているからです。
決定稿・進化したバージョンは、こちらです。
東大教授が解説!「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ(品田 悦一) | 現代ビジネス | 講談社
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64241


ただし、北條勝貴さんのご意見は、もともとのPDFファイルを読んでのものなので、この日記では、そちらも残したままにしておきます。


+*+-+*+-+*+  4月9日の日記

キリスト教徒だということも手伝って、わたしは、神道に思い入れがなく、天皇制はいずれなくなるのが望ましいと考えていて(まずは天皇のお仕事、定年制になったらいいな . . . )元号もできるだけ使わないようにしている、けれども――

品田悦一さんと北條勝貴さんのお話がとても興味深いので、載せておきます。

まず、東大の日本文学研究者、品田悦一さんの、新元号「令和」の典拠についての緊急寄稿。PDF
https://docs.wixstatic.com/ugd/9f1574_d3c9253e473440d29a8cc3b6e3769e52.pdf
(わたしは「元号」としましたが、品田さんは「年号」と書かれています)

そして下記。品田さんの記事を読まれた、上智大、歴史学の北條勝貴さんの投稿。
https://www.facebook.com/katsutaka.hojo/posts/2170389426401869 より

4月7日 19:17 ·

元号はもちろん、王権が統治の目的のために、時間をコントロールする道具として生み出したものに過ぎず、民主主義の現代にはそぐわないシロモノだ(いや、日本は民主主義ではないからいいのか…)。しかし、フィールドワークなどで聞き取り作業をしていると、話者がこの元号を活用しながら、豊かな歴史語りをする場面に出くわすことが少なくない。近代以降は、地方農村にまで元号による時間分節が浸透したが、ひとびとは無意識にも、それを支配の道具から記憶の整理、ナラティヴのインデックスに転換してしまった(例えば、『遠野物語』に散見される「大同」年号は、政権の思惑とは位相を異にする神話的起源となっている)。確かに、だからこそ支配の道具たりうるのだ、という観点も大切だろう。しかしそうした視点のみでひとびとを捉えてしまえば、彼らの認識の豊かさは失われ、かえってその生活の強靱さを貶めてしまうことになりかねない。グローバリゼーションの画一性と暴力性をその末端において作り変えてゆく、草の根グローバリゼーションと同じである。支配の道具としての元号をしっかりと批判しつつ、歴史実践のツールとしての元号にも、新たに証明を当ててゆくべきだろう。今回の「令和」騒動もそうだが、政府のプロパガンダに狂奔する言説の氾濫にも、それを支配の文脈からずらし、くさし、面白がる試みは多く見て取れた。文化事象として、極めて興味深いものだ。もちろん、元号が過去のリセットを促し、集合的アムネジアを引き起こす危険は高い。元号を使用する文化と使用しない文化、その歴史意識・歴史実践にいかなる相違があるのかは、問題点も含めて比較研究してゆくべきだろう。
 
そのうえで、品田悦一さんの下記の記事。現政権への批判的スタンス自体は、ぼくも品田さんと変わらない。しかし、この記事の内容については、少し異なる意見を持っている。中心的な問題は、品田さんが大伴旅人に感情移入しつつ、問題の『万葉集』巻5「梅花歌三十二首・序」からうかがえる彼の中央批判を、権力一般への批判にすり替えている点である。まず、正三位の高位にあり、新羅や西海道ににらみを利かせる大宰府の長官旅人を、隠逸の志が強かった王羲之に重ねることは可能だろうか。長屋王の変後の宮廷社会に、藤原四子への批判的空気が存在したことは確かだ。近年では、『懐風藻』も四子(とくに武智麻呂)への批判を込めて編纂され、『藤氏家伝』はそれを払拭すべく記述されたとの見解もある。光明子が「積善藤家」の印を用いるのも、その点と関係がある。しかし、長屋王の変が四子の権力私物化のために生じた、というのはやや短絡的な見方だろう。何世代も前の人間関係史の産物で、諸説あるものの、現在では律令国家の転換期にあって、国家構想の相違から生じた対立、事変とみるほうが一般的ではないか。いずれにしろ、旅人の視線は当時の政治抗争の渦中から中央をみた「批判」であり、「独占」も排除されつつある側からの認識に過ぎず、権力一般に対するものではなかろう。
そもそも、大伴氏は大王直轄の軍事力であり、暴力装置である。『続日本紀』養老4年(720)3月丙辰条によると、梅花の宴が催された10年前のまさに長屋王政権下、隼人が大隅守陽侯史麻呂を殺害し組織的な反乱に至るなか、旅人は天皇から節刀を授与され征隼人持節大将軍に任命される。彼は随時鎮圧に当たり、6月には、叛徒に対し「其の罪を誅罸し、彼巣居を尽す。兵を治め衆を率ゐ、兇徒を剪り掃」った功績で慰問を受けている。のち、藤原不比等の薨去に伴い旅人にのみ帰京命令が出るものの、掃討の任務は副将軍2人に継承され、最終的に養老5年(721)7月壬子、「斬首獲虜合せて千四百余人」で一応の決着をみる。旅人の大宰帥補任も、このときの功績と、西海道への影響力を評価しての面もあったろう(そうして実は、隼人の反乱はここで終わらず、そののちもくすぶり続けることになる)。
旅人に感情移入してしまうと、この隼人の抵抗や苦闘は、歴史の闇のなかへ葬り去られてしまう。それこそ、現政権が沖縄、福島などにしていることと同じではなかろうか。

+*+-+*+-+*+  

以下、5月18日にいただいた、品田 悦一さんのコメントです
鬼酣房先生秘書 2019年05月18日 11:15

 北條さん、みなさん、こんにちは。品田悦一です。
SNS関係は見るだけにして、書き込まない方針なのですが、気になる点があるので一言申します。
 いろいろな人が意見を交わし合って議論を深めていくのはもちろん望ましいことですが、出発点を見失わないようにしたいものです。私の出発点は、大伴旅人が書いたと考えられる梅花歌序(「帥老」の文言を根拠に憶良だとする向きは、「韜晦」という語の意味をを辞書で調べるべきでしょう)がテキストとしてどう読み解けるか、という点でした。そして間テキスト的な解読を試みた結果、「権力者の横暴が許せないし、忘れることができない」というメッセージが当該歌群および序の行間に読み取れると結論づけたものです。議論はテキスト解読という次元で一貫しているのであり、史実を導こうという立場とは一線を画しています。
 長屋王事件の史的脈絡については新説がいろいろ出ており、律令制度の円滑な運営にとって王の莫大な資産と権勢が阻害要因になっていたために、聖武天皇の合意をも得て抹殺したとする観測さえあります。史実としてはそうなのかもしれないと私も思います。しかしそのような考えを持ち込むのは、『万葉集』を読む立場ではありません。『万葉集』はあくまで大伴氏側の歴史観に立っているからです。長屋王事件に対する沈黙の批評は、当面の巻五以外にも、巻三・四・六に書き込まれている。巻六については昨年四月の東京大学国語国文学会およぴ七月の上代文学会例会で発表しましたが、まだ活字にしていません。巻三・四については今年七月の古代文学会で話すつもりです。
 なるほど史実は複雑であったろう。旅人自身大納言従二位、知太政官事舎人親王に告ぐ台閣のナンバー2の座を武智麻呂と分け合う権力者でしたし、亡き長屋王自身が権力者であった。藤原氏側の立場に立てば長屋王事件を正当化する理由はいろいろありえたでしょう。しかしそんなことは『万葉集』の知ったことではない。藤原四子を悪者扱いする歴史観は「短絡的」かもしれないが、『万葉集』自体がそういう歴史観に立っている以上、この立場と共犯関係を取り結ぶことなしに『万葉集』をまともに読むことはできません。
 私のことを史実、歴史については素人と評するのは評者の勝手ですが、史実という次元に議論をスライドさせること自体が筋違いであることを理解していただきたいと思ったので、一言述べた次第です。妄言多謝。


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