６月20日 ある土曜日の出来事《四》

人間はどんな時でも、食べるのは最高の楽しみの１つだ。特に俺はその傾向が強いかもしれない。
今日は朝１杯の豆乳を飲んだだけで、その後このドタバタ入院劇。気が付けば夕方で、空腹感はマックスだ。
先程院内を徘徊した時、１階でコンビニを見つけてジャスミン茶とハンバーガーを買って来た。入院患者が好き勝手にジャンクフードを食べていいのかは疑問だが、空腹は最高の調味料。美味しくいただく。差し当たって食事制限が殆ど無いのが救いである。

小腹を満たして落ち着いたのはいいが、程なくして晩飯となる。
病院の御飯はマズイってのが定説で、よくうちの両親が
『自分が入院してた病院の飯はマズイ』
『いや、私が入院した病院の方がマズイ』
等と競い合っているが、俺もようやくその論争に参加する権利を得る訳だ。
さて、一体どんなのが出て来るのか？

確かに、あまり美味しくなさそう(-.-;)
作り置きしてるからご飯の端っこの方は干からびているし、魚は妙にしょっぱい。(いいのかこの味付けで？)
『かぼちゃが一番旨かった』食事って、俺の人生で初めてかもしれない。
ただ俺は、よっぽどマズくない限り、大抵のモノはそれなりに美味しく食べる事ができるので、特に不満等は無かった。それに人がせっかく作ってくれた料理だ。しかも俺の健康を気遣って。何でも自由に食べる事ができるだけでも幸せである。



米粒１つ残さず食べ、綺麗になった皿を見た看護師が、『あっ、全部食べられましたね』と、ちょっと驚いた様子。
大食漢の俺には全然足りなかったが、この量すら食べ切れずに残す患者がいるのかと考えると複雑だ。或いは俺が完食するか否かを、明日退院の目安の１つとしていたのかもしれない。

夜には症状もかなり回復し、普通に元気になってしまった。しかしながら全く酒を飲みたいと思わなかったのが不思議だ。それが病院の醸し出す『雰囲気』だったのだろうか。
食事だ片付けだ、検温だ遅番との引き継ぎ挨拶だと、何だかんだ２時間に１回くらいは看護師が顔を出すが、その挨拶が『あまり変わりませんか？』から『だいぶ良くなりましたね』となり、しばらくすると『この調子なら明日退院できそうですね』と変わっていく。
喉が少し痛いのと目の腫れが少し残ってる程度で、他は何の問題も無い。

間も無く消灯時間となる。ベッドサイドの灯りで少し本を読んだが、眠くなったので眠る事にする。
昼前から起きてるし昼寝もしていない。精神的な疲れもあってか、意外とすんなり寝る事ができた。
途中何度となく隣のお爺さんの所に看護師がやって来て、ガサゴソやってて目が醒める。
翌朝の会話で判った事だが、１人でトイレに行けず、その度にナースコールを押してたのだ。
下の世話をされるのもイヤだし、相手にも申し訳ない。(それが仕事だとしても)
と言って我慢する訳にはいかないしね。
まぁその立場になれば開き直るしかないんだろうけど、それに慣れちゃうのも考えもんだ。複雑な心境である。



今朝のご飯。

昨日の診察で医者に色々訊かれた時、以前、古い生卵で全身に蕁麻疹が出た事があると伝えた。メニューを見ると今日の朝食には卵焼きがあった様だが、当然ながら削られていた。
あぁ卵焼き食べたかった。
しかし、卵焼きがダメなら別の一品を入れてくれよな。どう見てもおかずが少な過ぎるだろ。

朝食が終わると退院手続きとなり、様々な書類が届けられた。同室のお爺さん２人とは顔を合わせる機会も無く、結局話もできなかったが、どうかお大事にされて下さい。

父親が迎えに来てくれて家路に着く。
それまでは俺が父親の入退院の送り迎えをしてもらったが、立場が逆転だ。
俺は若く見られる方だしスポーツも継続している。独身貴族で遊び回っているので、心身共に若い方だとは思っている。だが、当然いつまでも若くはいられない。当たり前の事の様でいて、しかしそれまで実感した事が無かった。いや、実感しそうになっても、『気のせいだ』、『まだ大丈夫』と、わざと目を背けていたのだ。
たった１晩の入院だったが、俺の人生観に大きな影響を与えたのは間違いない。人生が、海を行く船だとしたら、今回の入院は頭上から降り掛かる大波の様なモノだ。船は大した損害も無く航行にも支障は無かったが、頭から波を被って全身びしょ濡れとなり、目をパチクリさせてる様な感じであろうか。それまでの、凪いだ海をノンビリと進んでいた俺は、ハッと我に返った。嵐がやって来るのは時間の問題なのだ。