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2006年11月24日22:35

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猿神憑きについて。

私のハンドルネーム、犬神博士(いぬがみはくし)の由来は、学生時代、荒俣宏先生や小松和彦先生の影響で、憑き物を中心とした民間信仰の研究に没頭していたためで、学生仲間から単純に犬神博士と呼ばれたことに始まる。
夢野久作や丸尾末広さんの作品からのものではない。
で。
こんにち、憑き物といえば、狐憑き、犬神憑き、蛇神憑きなどが知られているが、憑き物としての猿はあまり知られていない。
いわゆる猿神(さるがみ)といえば、民俗学の世界では、ヒヒのことである。昔話によく登場した、若い娘を狙うヒヒだ。スケベなジジイのことをヒヒジジイと呼ぶのが、ヒヒがいかに恐れられていたかの名残りなのだ。
しかし、猿神憑きとしての、猿は何のへんてつもないニホンザルが主役で、ヒヒ以上に恐るべき存在となる。
私が猿神憑きのことを初めて聞いたのは、高知市をベースキャンプとして物部村から四国中を犬神憑きの取材で訪ね歩いていた時、愛媛は宇和島で霊能者と名乗るおばさんの話を聞いていた最中であった。
「犬神様ばかりでのうて、お猿さんも憑きよるんよ」とおばさん。
「猿って・・・猿がですか?」と私。
「犬神様より難しゅうて、ややこしゅうて、危ないき、はやらんかったけんどね」
「猿は犬ほど言うこときかないからでしょう?」
「いやあ、そうかもしれんけんど、祈る方もまいるきんにね・・・両目をえぐらなきゃいかんのよ」
「なんでまた!」
「そうせな、お猿さんが、自分の顔持ってきちゅうがやと」
話を要約するとこうである。
猿神を使役する祈祷師は、常に両目がない。自分で抉り出すからだ。その理由は、憑かせる相手は必ずまいらせるが、それだけのものが自分にもかえってくるためである。
つまり、代償として、呪いを一身に受けるのだが、共倒れにならぬように両目を抉ると。
何でも、自分自身の顔を持った猿が会いにくるのだそうで、それを見たら死んでしまうとか・・・。
それで、半信半疑の私に、引退した猿神憑きの祈祷師を紹介してくれたのだが、会いに行くのは丁重に断った。
猿神憑きが犬神憑きに比べて、なにゆえに危険ではやらなかったかが分かったからだ。
憑き物というのは、一口に言ってしまうと、暗示である。
それも極端な暗示だ。
だから、犬神憑きは、わざわざ生きた犬を使うのだが、猿神憑きは一度も生きた猿を使う話が出なかった。
自分自身の顔を持つ猿。
そこに継承不可能の、一代限りの、その人個人の強力な暗示力の危険性を感じ取って、私は本能的に避けるのが一番だと考えたのだ。
私が会った祈祷師の何人かは、犬の首の干物を見せて、反応を嬉しがっていたものだが、あれだって暗示力の誇示のひとつである。
しかし、猿神憑きは、ひょっとすると、現実の猿ではなく、言葉の上での猿を使役するものなのかもしれない。
何も持たない貧しい者が、自らの両目を抉って、猿神を憑かせるぞと言ってきたとしたら、あなたはどう反応するだろうか。
そういうことなのである。
そこに、私は、部落差別、民間信仰、僻地の閉塞感に生きる人間の愚かさ、哀しさ、恐ろしさをまざまざと感じ取り、犬神限りで研究を辞めようと決心した。

・・・・・・

いじめ問題が社会問題化している現在。
ふと、私は、映画「丑三つの村」の原型となった津山事件の、犯人の心の闇を思い、連続して、部落差別を思い、犬神憑きを思い、そして猿神憑きを思い出したわけである。
人間の心の闇はかくも恐ろしい。
しかし、両目を抉ってまで、自らの生を生きようとする姿は恐ろしくとも、前向きである。
私は今日の結びとして、高知県は物部村の村役場が掲げていたスローガンを何度も思い出したい。

「山桜と人権尊重の里」。


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