mixiユーザー(id:163513)

2019年12月15日11:07

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俺の話は長い

 
昨夜が『俺の話は長い』の最終回、見終わってもうロス状態になっている。最終回ラスト前は、小津的エンプティショットの連続で、やはりこのホームドラマの基底が小津だったと納得させた。それから顔を見せない倉科カナの通過に驚いた。多言のまま交錯する科白のやり取りで時空がゆるむ。俳優みなの口跡が達者だ(強調される屁理屈は脱論理性ではなく遊戯的論理性の域にあるのが愉しい)。寝転がる姿勢の特権化。コタツ至上主義、すき焼き至上主義なども本気だった。生田斗真、小池栄子、原田美枝子、安田顕、清原果耶という最少アンサンブルが最少美学をつくった。それに二話構成という例外的な形式が貢献していた。一話完結の緊密すぎるドラマ時間への異議申立、主題系の変化。ニートという社会問題を盛ったが、意味のない時間の連続こそが豊饒という逆説の方がむしろ主体だった。そのようにして、空間内の段ボールの積み上げがあった。中途と完結。完結はがらんどうとなる。ノスタルジックに見えて、大袈裟でない新しさが煌めいていた。俳優身体の同調が見事で、原田美枝子の科白に、姉弟役の小池栄子、生田斗真が全く同反応、同表情となったのに喝采した。そのなかでひとり血の繋がらない安田顕が余剰を形成しつつ、やがては義弟の生田斗真と酷似してくる。類似が真のテーマだったのか。食事の大切さなど、積み上げた価値はいろいろ大きい。おかっぱの可愛かった、小池栄子の娘で生田斗真の姪だった(まさにそうとしか見えなかった)清原果耶(『透明なゆりかご』)は今後ますます第一線に躍り出るだろう。彼女の眼には笑みと含羞と自省と好奇の同居がある。そしてそれぞれの価値が類似している。そのことで眼千両の小池栄子と拮抗していた。総じていえば演技アンサンブルとは相互に「似ること」「速いこと」「仮の対立をすること」だろう。続篇熱望
 
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