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2019年07月19日05:00

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今泉力哉・愛がなんだ

 
今泉力哉監督『愛がなんだ』の凄さをどう称えたらいいだろう。まず映画表現に必要なのが人物の行動と表情の精度だとして、そうした精度を身に帯びすぎる映画が無償性特有の虚しさで決然と輝くと言えばいいのか。ともあれ原作の角田光代の小説が、恋する人物たちの視線連鎖、男の子の性格的な冷たさ、満たされない恋愛感情の切なさからして魚喃キリコの短篇マンガ連作「日曜日に風邪をひく」を勝手に書き継いだとも言え、今泉力哉はさらにその映像化にあたり、大根仁と三浦大輔の『恋の渦』に見られたドキュン系のバカ中心の、恋愛上の利己主義の可笑的な醜さ、さらには俳優に充てがわれた日常的な科白から俳優造型全体を実在性に向け完全に膨らませてゆく濱口竜介『ハッピーアワー』的な精緻化を加算して、この『愛がなんだ』を形容不能のリアルに仕立て上げたとはとりあえず結論できそうだ。むろんリアルは居心地が悪い。例えばヒロインの位置にいるテルコ=岸井ゆきのは、結婚式の二次会で懇意になった「手がキレイで」ちょっとクールなイケメン(内実は二流の出版社内デザイナー)、マモル=成田凌にゾッコンで、マモルからの身勝手な呼び出しに仕事も上の空で飢えまくっているのだが、自分を好きだという兆候を一切見せない相手に対し、表面上はさりげなさを装いきれていると信じている。この視野狭窄的な自己盲信が現代の用語で言えば「イタい」のは確かだ。得体の知れない下心がどう足掻いても相手に露見しているためだ。うっすらと現れているのは「さみしさ」「計算高さ」という、どうしようもない怪物。岸井ゆきのの完璧な演技はそのイタさがどのような発語と動作の分節によっているかを観客にひたすら観察させてゆく。なぜ同調ではなく観察がこのような緻密さで過程化、緊張化され連続してゆくのか。岸井ゆきのに普遍的な可愛さと同世代女性の抜群の転写力があって、同時にそこに、ゾッとさせるような愚かしさ、献身の悲劇性、砂を噛むように虚しい自己誘導性、自己判断の不作為、敗北主義の糊塗など、非難に値する数えきれない「負性」が裏打ちされているから、観客の眼が純度ではなく「混在性」に向け釘付けになり、「度合い」に関わる確実な解答が場面ごとの偏差として与えられるからだろう。問題は「ある、ある」的な認知の快さを超え、度を過ぎた精度が一旦「不気味の谷」を形成し、それを超えたあとで観客自身の自己懲罰まで起きてしまう点なのではないか。観客は客観的な観察をしていると自己過信しながら、冷静さを自らに振りまくことで却って自己懲罰に至る。岸井ゆきのの場面ごとの度合いの違いが、観客と岸井ゆきのの度合いの違いと等しいためだ。その意味で岸井ゆきのは実在であると同時に、人間全般の虚偽にまで架橋を施す正体不明の媒質なのだとも言える。映画『愛がなんだ』の凄まじさは、この実在性と媒質性の不可分が、テルコ=岸井ゆきの、マモル=成田凌のみならず、葉子=深川麻衣、ナカハラ=若葉竜也、すみれ=江口のりこなど、すべての主要人物たちに行き渡っている点で、結果、以上の人物群が順列組み合わせ的に同一場面にいることや、そこでの視線の交わし合い、あるいは交わさないことすべてが、高度なアフォーダンス的充実と疲弊をもたらす点だろう。あまりにもリアルが多過ぎて、やがて観客の注意力が決壊していくと、作品は杉並区あたりの中央線沿線から世田谷区あたりの小田急沿線までの夜の空気の実在性、コンビニ前のありきたりな空間のかけがえのなさ、飲み会で周囲に打ち解けずにいる無聊の実質、アタマの悪い人間のする好意執着のあからさまな露呈、反撥を感じたことが相手への興味の契機になってしまうことなど、「この世のアタマの悪い真実」を本当に適切な映像と音響によって代位させていくから、息を抜くいとまもなく魅了がひたすら、拷問のように連続してゆく。一旦別れたことがどのようになし崩しになるか、会いたい人に会うために第三者を利用することがどんなに卑劣か、それらが人間をどのように頽落させていくかは、もはや恋愛ドラマの主題ではなく、哲学的な問題提起にまでなっている。結論的に言えば、時間と人に分節は設けられないのだ。動物園のゾウの皮膚が作中捉えられるが、叡智を印象付けるそれは、同時に生物的なおぞましさ、アブジェクションから離れることができない。作品は終盤、人物の相互性が悲劇臭なく、それでいて八方塞がりになってゆく傾斜を描く。このとき、主要人物の役柄名がエンドクレジットの予告の呼吸で間歇的に挿入されだすのだが、それで観客は映画がどう終わるかを固唾を飲んで待ち構えるようになる。何が問題で何が解決かは掴み難いのだが、ともあれ解決を待ち構えると、見事に解決かどうか掴み難い解決がまさに現実のように到来する。しかもそこにシニシズムの気配は一切なく、言語化できない現実肯定だけが出現するから、結局観客は、自分が感動したという判断をするしかない。いや、そう判断した途端に、観客は自らの身体が異様に充実している事実に出くわすはずなのだ。即時性と遅効性の弁別も定かならぬまま一本の映画を退屈せずに観ていたこと、しかもその映画に視覚的聴覚的底上げが一切なかったことに改めて驚きながら、映画『愛がなんだ』が何を撃ったのかを名指せないままでもいるだろう。「愛がなんだ」はテルコがナカハラっちを夜のコンビニ前で叱責するくだりに確かにあった言葉なのだが、初見でその叱責の実質と方向性を思い返せる客はいないのではないか。冷静に全てを観察したと思わせた本作の細部が判断を超える外部性を湛えていた点は想起されるべきだろう。7月18日、札幌シアターキノにて鑑賞
 
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