ヒエログリフの一文に「今時の若いもんは」なる老人の愚痴が記されていたらしい。
紀元前から数千年。
老人は若者に何を求めているのだろうか?
一つの家庭において、子供の役割と言えば、親より優秀な個体に成長し、またより優秀な個体と子供を作り、子々孫々と遺伝子を残し、先代で残した課題をクリアすることが生命体として自然な流れ。
ところが、人類は、多様な方法で個体情報を子供無しでも何らかの形で伝達するようになった。
最たるものがインターネット環境。
光の速さであり得ない出会いが待ってる。
情報交換の仕方や情報の真偽の判断など、実に広大な世界が電気によって成り立っている。
書籍も電子書籍派の人も珍しくなくなってきた。
ただ、今現在、人は人を超えているかどうかは定かじゃない。
少なくとも、私個人は私個人の遺伝子を次の世代にバトンタッチすべきじゃないと、高校を卒業する頃には漠然と静かで少し暖かい死を待ってた。
勉強もスポーツも社会的スキルも上手く扱えないまま、試行錯誤した結果、私は人であることを辞めざる得なかった。
精神障碍者の認定を受けたことは、精神面では人ではない何かに変化したものと言える。
秀でているとは思わない。
しかし、一般の健常者たちが戦争や犯罪や不貞を働き続ける現状、誰がどこまで正常なのかすら私にはわからない。
最近、認知症の症状が散見されるようになった父の脳に変化があるのも事実。
大きなことを言える立場じゃないが、精神の異常は精神が過去の遺伝子を書き換え、私と言う存在を次の階層に移動させたのではないかとも思う。
常人には理解できないレベルのかなり緻密な夢をよく見る。
昼寝の際に、五感でわかる域の高度で緻密な情報空間に入る。
明晰夢と言うらしい。
空を飛びたいと思えば宙に浮く夢を見る選択ができるし、お腹いっぱいご馳走を食べたいと願えば知る限り全てのご馳走を食べる感覚を感じ取れる。
ガンダムの世界にニュータイプと言う人種が現れるが、私も一種のニュータイプか、もしくは強化人間なんじゃないかって感じる時がある。
常識にとらわれない自由な発想で、経験した全ての出来事を数時間に凝縮できることもある。
話がそれた。
人だったものとして、今を生きる人々に問う。
人のままで有りたいか、人以下に変化するか、人以上に変化するか、変化する自然界に適応せず全滅したいか?
権力や地位や名誉は種の存続に意味を成さないらしいことは、少なくともこれまでの過去の人々が繰り返した過ちの数々が歴史となって残っている。
人は過去に学べる生き物じゃないらしいと私は思う。
その人その人で過去の体験や経験は大きな差があるし、皆が分かり合える未来と言うものは、理想ではあるものの、現実的ではない。
生まれながらに定めの中で終わるものも居れば、不屈不断の努力で自分の能力を次世代に高い水準で残そうとするものもいる。
仏教によれば、人の煩悩と言う無駄な思考は108あるそうな。
私が工場でフォークリフトを運転する仕事をしていた27歳の時、人の数だけ煩悩の差があると結論付け、その当時の総人口×人種×宗教×文化×個人の経験×国家の威信の数だけ煩悩があるから、人は悟りを開いて仏になることなど不可能と考えた。
悟ることを諦めることを悟るという退廃的で煩悩だらけの、しかも無慈悲で自己完結した脳が完成したことにより、私は人である時間、人を辞めることにスケジュールを組んでしまった。
人は人以上に変化できるのか?
人は人以上になって喜ばれるのか?
人は人以下になることを蔑んでしまってないか?
人は人を裁いて良いのか?
人は人を作るべきなのか?
人は人以上の子孫を残せるのか?
やりもしないで諦めた私が問う内容ではないにせよ、昔はこうだったから昔の人のやり方の新旧の良し悪しを子孫が決めて良いか?
敷かれたレールの上を滑るトロッコにブレーキがついているならば、そのブレーキはどのタイミングでかけるべきなのか。
人の未来はまだ余白があると願いたい。
病魔に勝ち、プラスチックゴミ問題を解決できないならば、人類は猿以下かもしれない。
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