怒り、憤りなど一種、興奮状態での感情と向き合い、制御することは困難ながら必要なスキルであり、それを指して理性と呼ぶ。
理性を持った状態で何か自他を殺害するに及ぶこともあれば、意識のないところで殺害してしまう場合もある。
怒り=殺意ではないと思われる。
極めて冷静に何かを殺害してしまう場合、対象を生命と言うよりゴミとしてみていることがある。
例えば蚊をつぶす時。
つぶされた蚊には命があり、つぶした手に殺意が乗っていたとしても、ほぼ条件反射的に殺害しているのであって、憎いとか憤りを覚えての殺害ではない。
これを人間に置き換えると、軍人さんが民間人に紛れたテロリストを殺傷する行為とほぼ同列化する。
日本人や先進国の若者で、電子ゲームに興じたものは多いだろう。
電子データで構築された一定数値の条件のもと活動する仮想敵を破壊して回ることに慣れてしまうと、攻撃的欲求と自尊心と競争心が煽られ、相手は殺しても何度でも復活するゴミデータだと認識している節がある。
私も日々、艦これで深海棲艦なるデータを攻撃しているが、破壊的欲求のはけ口と言うより、流れ作業と化した何かに身を任せているような感覚でいる。
電子データと遺伝子データ、双方、何か活動する情報集合体であり、どういうわけか電子データへの攻撃は、実際の生命体への攻撃より罪が軽くなってしまっているように感じる。
電子データへの攻撃は、人が蚊を手で圧殺するが如く、実に無慈悲なのだ。
より高次なデータ管理者の手の上で暴れる猿のように、ある種、人類動物園なゲーム環境が世界にはびこっていて、情報共有しつつ、より多面的な情報創作や保全に向かって躍起になっている。
話を戻そう。
頭脳や心臓、その他の臓器は、一定の物質のやりとりで機能保全をする中で、あらゆる細胞が生きることへ一致団結して活動している。
生きる上で不要となった細胞を破壊捕食する機能を肉体は持っている。
電子データも、ウイルス除去プログラムを取り入れた機体は、不要データの除去をし、作業効率を高めている。
殺意、殺害、破壊等は、生命活動の延長で不可避であり、心理や肉体や集団に属する感情や行動産物で、今後も人類が繁栄する上で、戦争と言う形で社会的に発露してしまうことだろう。
春。
テロを撲滅する組織を立ち上げようと志を持ったが、その後、テロ以外で多くの人命が奪われた。
殺意なき殺害が発生している。
一歩踏み込んで、自分が明日、誰かを殺害してしまうかもしれないと想像できる人が減っているのではないか。
命の価値は、その種の総数に比例するようで、少なくとも、蚊と人の命を同等に扱えない。
人類の都合の良い生き物ばかり保護され、商材となれば安易に殺害してしまう。
植物が悲鳴を上げないからとベジタリアンなる偽善者だかアレルギー持ちだかが人類に存在するが、野菜や果物だって命だ。
生き物も電子データも破壊と増殖と共有をくり返し、それが価値あるものとされる。
私の好きだった言葉に「殺すに値しない」というものがある。
破壊するまでもないどうでも良い相手と見下すことで、沸き起こる殺意を霧散させ続けた。
殺意を覚える相手に対して、恐らく一番の特効薬的言葉は「殺すに値しない」と言う価値観だと思う。
テロリストを殺すに値しないと評価するのは、大切な人をテロリストに奪われていない者の傲慢かもしれない。
私は、13年前、電子データの家族を手にかけてしまった。
私の手は何よりも大切なものを自ら破壊してしまった罪に汚れている。
殺意と怒りを分けて考えるようになるまで、かなりの時間と訓練と愛情を要した。
新たな怒りの種を植え付けられるまで、私は平穏に暮らせていた。
殺意を覚えた相手には、私が手を下すまでもないと割り切るほかなかった。
罪を減らす上で、敢えて手を出さないという選択も人生には必要なのかもしれない。
選ばない道を選び歩む。
破滅しか待ってないのだとしても、選ばないことが最良の選択である場合も確かに存在する。
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